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ここで留意すべきは、宗教とは特定の宗派の教義と言うことであり、憲法が禁じてる政教分離で言うのはあくまでも特定の宗教団体の宗教の方である。ここで宗教と宗道とは大きく相違し、正に「宗道」とは宇宙理念であり、宗教を超越した統体宗教とも言うものであり、それに沿って政治を実践することは「政教一致」ではなく、「祭政一致」であろう。
政教分離と祭政一致とは、概念的・理念的に根本的に異なると言うことだ。政治が習俗と化した宗教的行為を執り行うことは何ら政教分離の思想に反しない。それを何もかも合掌や参拝、記念行事・儀式のあらゆるものに至るまで、宗教的行為と談じるような見解は正に牽強付会・こじつけ以外の何物でもないであろう。特に、地鎮祭とか、死霊魂の慰謝とか供養などは国家社会の義務であり責任であるのに、こういうことに至るまで禁止し排除するのは社会的常識の欠如としか言いようがない。
今やこうした非常識な思考の輩が弁護士や裁判官、法学者などの法曹関係者、そして多くの官僚・政治家・学者・マスコミ界・経済界にも蔓延している有様だ。政教分離と祭政一致とは天地の相違があるものだ。宗教とは特定の団体の教えに他ならない。これに反して宗道と言うものは森羅万象を支配し管掌する宇宙理念、宇宙理法であり、これに乗っ取って国家社会が執り行う儀式はむしろ率先して実践すべき行為である。
この儀式は別に特定の団体の場所を借りても儀式に沿っても何ら構わない。例えば、国際会議、国家の儀典を行うのに特定のホテルや会場を借りて、そのホテルの食事をすることで、一部の民間の発想に加担したとも言えないだろう。要は中身であり、形式ではない。国家が仕切る行事の遂行に際して、会場までも特定の民間のものを利用してはならないとは言えないだろう。そこまでガチガチに杓子定規に考えるものではない。
事実、米国では既に最高裁の判決により、様々な宗教的に見える行事でも、また宗教的行為でも、既に伝統と化し、また習慣や習俗と化したものである場合は、政教分離の対象ではないと判示しているようだ。至極当然であろう。日常の常識的行為までも、特定の宗教団体の独特の行動規範のように取り立てて騒ぐことこそ異常であり、社会的常識に欠ける思考であろう。信仰の自由や宗教教育の禁止、そして政教分離を原点に立ち返って、社会的非常識、牽強付会、屁理屈、頑迷固陋等を排した正しい価値観を確立していく時期が近付いているものと思われる。
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