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不動明王様が真摯になって説かれ強調される「真仰」の重要性や緊急性に対して、一見賛同し賛美し賛意し賞賛を示すと見せながら、巧妙・狡猾に真意を曲解しねじ曲げて、結果的には、崇高な「真仰」を否定し排斥し侮蔑し嘲笑する者が居るが、これはかつて釈尊生存中において、釈尊の前に不届きにも立ちはだかったダイバダッタ(提婆達多)のような存在であろう。世の終末にはこうした邪悪魔が自分自身の防衛のために、最後の悪あがきや抵抗を試み、さも自分が釈尊に成り代わって講釈して釈尊排斥を企みて、一般大衆を混乱・幻滅・幻惑させ、愚弄・嘲笑して、真理・真髄とは程遠い魔道・魔信仰の世界と困惑させ誘導するものであろう。
あくまでも不動明王様は、無私、無欲、無我の境地で、何らの打算や売名、利欲の心なく、虚心坦懐、慈愛、不平・不満・不足の心なく、自己の心魂の奥底に鎮座される真の神仏を発現するべく六根清浄にて心魂を錬磨し向上し浄化する一方、その浄化された心魂を仰ぎ詣拝し傾けるべき対象を輪廻転生を超絶した大宇宙の宙天の玉座に鎮座される真の神仏とを一直線にて直結する行為こそ「真仰」の実践であろうと指摘されておられるのだ。
これが結果的には、魔との決別、離別を産み、魔の一掃・廃絶に繋がって行くことを強調され、あくまでもこれは当初から求める打算、売名、利欲、目的意識を有していては「真仰」に反する行為であり、あくまでも結果として[悪想念の断絶」や「悪想念の消去」が得られるもので、最初から利益獲得を意識するものではないと言われておられるのだ。
意識するところには現世御利益と何ら変わりはないのは当然であろう。無意識で実践するところには、その効果、効益するところを敢えて指摘すればば、実に「理益」が授持されるものであろうと言われているのだ。しかし、最初から求める意識を有しての実践では瞬時にして「利益」に堕落してしまうものであろう。不動明王さまは、最初から「真仰」を打算や売名や利欲などで意識的に実践することを何度も強く戒めておられるのである。
それをダイバダッタ(提婆達多)よ、汝は故意に作為的に、不動明王さまの御説示の内容を本末転倒、順序転換、主客反転、因果逆転させ、「真仰」を曲解させて、『「真仰」の目的はあくまで「御魂磨き」にあるのであって、「悪想念の消去」はそのささやかな結果である。』と全く不動明王さまと同じ見解を、換骨奪胎させて自分の意見として横取りしているものである。
ただ不動明王さまは、現世の混乱は死者の苦怨の反映であると指摘し警告されて、邪悪な想念の一掃・廃絶こそ今世社会を救う第一義のものであることを強調されておられるものだ。ダイバダッタ(提婆達多)よ、汝の言うような、「真仰」の効果や意義を過小評価し故意に落とし込めるような「ささやかな結果」というものではないと言えよう。これこそ「真仰」を身命を賭して国民総決起で実践する気迫、重要性、緊急性に対する認識に全く欠如していると言う他ないだろう。
そもそも汝は、「真仰」を『「悪想念の消去」を心理的報酬とした「御利益宗教」の道具に堕落してしまう』とする認識すらが、実に誤った「真仰」の解釈・実践であり、それは従来のような単なる売名や打算、利欲として実践する「信心・信仰」でしかなく、「真仰」そのものではないだろう。即ち、打算や目的意識を有して行うもので、解釈と実践・内容を曲解し感謝や祈念の対象を誤ったものであろう。それ故に、自力でもなく他力でもないと一見、中庸・中道の世界に浸って悟ったような錯覚で、真理を曖昧模糊にして否定し排斥し曲解し、結果的には自己中心の世界、我利、我欲、我執、我私に満ちた誤った唯我独善の魔界・魔道・魔信仰に陥っていくものであろう。
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