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↓4.ご指摘の通りで、日頃のご愛好に心より感謝いたします。

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月20日(土)23時33分35秒
   先頃、先述の立派な古事記の解説本を著作された研究者の方からも、当方の手紙に対して、共に表現は異なるけれど、自分と同じことを言っているように思うという大変柔軟な受け止め方をされて、実に心を打たれるとか感銘の御言葉をいただきました。実に素直に率直に実直に共感されたのには、当方の方が逆に大変驚かされた想いです。得てして功成り名を遂げた方は、自説に固執されやすいのですが、アッサリ自説を修正され補足される勇気のある方だと思いました。真理というものは案外、山で言えば登山口は異なるものの、目指す頂上は同じと言うことで、相通ずるものでしょう。

 ところで、多くの有識者は様々な法制度の改革にのみ心を奪われておりますが、勿論、それらも大切ですが、要はその法制度を運用する意識の問題が根底にあり、その改定こそ重要と言えるでしょう。目下の幾多の犯罪の発生や混乱などは、何も法制度上の欠陥だけから招来されたものではないでしょう。正に真正な心魂の在り方の実践、即ち「真仰」の実践に他なりません。これこそ邪悪で猜疑な想念を一掃し排除していくものでしょう。古事記や宗教でも、単なる知識や学識の学問的関心や興味でしか理解されない嫌いがありますが、あくまでも社会的実践として役立てて生かして行かねばなりません。

 ところで、かつて当方の下に近付いてきた某霊能力者は、「空中から、○さんの声が聞こえてくる。邪悪な想念一掃という大きな声だ。他にも様々な言霊が聞こえてくる。実に激しい厳しいグサッと心に刺さる波動の強い言霊だ」などと言っていたことを思い出しました。残念ながら、地獄の底で苛まれていた精神分裂病が、当方が指示した処方箋により治った途端、薬のお陰と言って解釈と感謝を誤って再度元の欲望・利欲の世界に戻っていき、当方から去っていきました。

 所詮は日本の改革には同志とは成り得ない限界を露呈したもので、自分の野望達成のために当方を利用していたもので、とうとう馬脚を現して脱落していったものです。別に無理に協力することなど必要ではなく、何ら邪魔をしないことで充分であるのですが、攻撃的言動を吐くことは既に邪魔以外の何物でもなく、邪念波動との決別で先方から去っていったものです。実に「来る者拒まず、去る者追わず」です。その内、再度、元の精神分裂病に陥っていくことも有り得るでしょう。

 今後は益々、邪悪な者は淘汰されて最後には真摯、真剣、本物の方しか残らないでしょう。それで充分なのです。要は波動想念の問題ですから、邪悪で猜疑な波動がある限り、幾ら大勢が数を頼んで結集してもダメなのです。逆に清浄で神聖な強力な波動ならば、人数には全く関係ありません。要は清浄で高邁で高尚で真正な波動こそ大切なのです。何万何千という無数の星が集まったところで闇夜を照らすには不充分であり、それに比べてたった一つの孤高・光輝で崇高な太陽の光明さ、神々しさには適いませんし、闇は一瞬にして消失・消滅していくもので、これと同じことでしょう。

 数千年来の歴史の総決算を成していくためには、当方は最後には資本主義体制の崩壊と共に、国際金融資本や各国王族の金持ちを始め、国内外の全世界の者が財政的にも衰滅し破綻して行く中で総懺悔し意識変革をさせられていくものと思っております。崩壊と懺悔、そして協力と新たなる出発・再生・建設、これらが一体となって到来してくるものと思っております。今や、その時期は刻一刻と忍び寄っているように思います。ご指摘されたように、当方に力強さ、勇気付けられるような強力な波動があるとしたら、既に、一般の方にも認識され解るように、言霊として広範に浸透して多大な影響・効果を発揮していると言えるでしょう。
 

↓3.ご指摘の通りで、日頃のご愛好に心より感謝いたします。

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月20日(土)23時32分3秒
   古事記で言う高天原も「宙天」そのものを指すのか、輪廻転生界の最高位を指すのか定かではありませんが、何れにしても、従来の解釈を越えて新たな認識をして、ご指摘のような再定義で良いのではないかと思います。要するに、何も古事記の通説に囚われることなく、当方が今後世間に訴えていく開示・解示に沿って、新しい解釈や定義や認識で行けば結構でしょう。

 古事記を書いた者も自分自身の体験に基づいて正確に把握していたものでもなく、伝承されてきたことを後世において纏めていったものでしょう。巷間の噂では、本居宣長の古事記本は、勝手な解釈の下に数百カ所も改竄されているようですから、真理に沿って新たに再改訂し再認識し再定義して行けば良いものでしょう。

 また「真の神仏」は実質は他の神々と同様にエネルギー粒子(霊体)ではありますが、「真の神仏」は、万物の創造主であり、総体エネルギー粒子の産出、創造、湧出に大いに預かっておられる存在と言えるでしょう。その大宇宙の最果て・最高位・再極致の領域は何者も侵しがたい神聖で清浄な空域であり、その入門や開扉は邪悪な想念には固く閉ざされているように思います。如来と成られ仏身に顛化された方にのみ輪廻転生を離脱して開扉されるものであろうと思われる、実に「輪廻転生界を超越した超絶無限の妙理の世界」であろうと思われます。

 ところで、人間と対話し命令したり姿形を見せたりする神仏も、一種のエネルギー粒体の霊体であり、輪廻転生界に徘徊する魔の神仏と思われ、古来、世界の殆どの神々は、古代エジプトなどに見られる様々な彫刻に作成され絵画に描かれたトカゲや牛、ヘビ、鳥、イヌ、オオカミなどでも解るように、実体は畜生死霊魂であるように思います。こうした魔の神仏を生け贄の儀式などで崇拝してきた宗教が殆どで、今なお欧米の闇の秘密結社では、真剣に殺人や生け贄の悪魔崇拝の儀式を行って呪詛・祈祷に埋没している有様です。これらの畜生死霊魂の魔の神仏には、ただ感謝の対象のみに徹して対処していけば何ら問題はありません。こうした魔の神仏は、対応する者の心の善悪に応じて瞬時にして、善魔、悪魔に変身していくように思います。

 従って、欲望や願望を発した他力本願の「祈願」の行為では悪魔が招き寄せられて接近し願いは叶えてくれますが、後でお礼返しを忘却してきた折りには罰を与えるものであります。他方、自力発魂の「感謝」「祈念」の行為では、そこに自らの魂の浄化を求めて協力し支援するものであり、それらは実に善魔と言うものだろうと思います。多くの方はその解釈を逆にして、最初から真摯な自力を放棄して、安易に他力本願に狂奔、狂走して悪魔を招来させ氾濫させ、暗躍、跋扈、跳梁、横行させていると言えるでしょう。社会現象としてみられる殆どの異常、狂気、殺気、狂騒、狂乱、混乱の背後には、実に地獄に徘徊する悪魔の教唆、支持、暗示、暗躍があると言って良いでしょう。       

 正にここにこそ、国民総決起で「真仰」を実践して今世社会を救う第一義の秘訣があると言えるのです。これは実に国内のみならず、全世界にも通用する世界性、普遍性を有した真理であり、万古不易の摂理と言えるでしょう。現在の世界中の至る所で発生している混乱や争乱、相剋なども、実に「真仰」の実践でしか解決不可能と言えるでしょう。最近は外国人も日本の古事記の翻訳を通じて関心を示しており、当方の見解を参照すれば、案外、外国の方から真摯な理解と新しい解釈を生み出して採用し、世界平和の原動力や基準になっていくかも知れません。数千年来の宗教的対立の総決算に向けて大いに期待したものです。
 

↓2.ご指摘の通りで、日頃のご愛好に心より感謝いたします。

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月20日(土)23時31分30秒
   既に殆どの政治家や有識者、マスコミ界、学界などあらゆるところに、清浄で神聖な波動が伝搬・浸透しており、HP以外にも、随分以前から手紙や冊子、その他の配布手段で国内のあらゆる箇所に伝搬し浸透しております。勿論、外国にも伝わっております。例え、相手が開封しなくても、波動は一種の電磁波ですので、当方を守護し協力する幾多の諸仏、諸菩薩、諸天善神の眷属霊達が、文字や電話回線やコンピューターの中に潜み忍び寄って浸透しているように思います。

 次第に人々の意識に働き掛けて邪悪な想念を一掃し淘汰し、逆に善良な意識を守護し拡散していくことでしょう。正に「国民が知らずの内に進展する」と言うものでしょう。逆に言えば、当方の作戦は一種のゲリラ戦ですので、相手に気付かれないで邪悪魔の想念を衰退・衰滅に追いやっていくと言えるでしょう。

 一部の敏感な方を除いて多くの方は案外気付かないかも知れませんが、今や政治や政党の衰退・衰滅・空洞化で破綻寸前であります。権威や権力の無秩序化現象の蔓延です。最早この流れは止めようもありません。物理的破壊力・解体力を伴った革命ではなく、実に静かなる無意識の革命に他なりません。これは今や海外にまで浸透していると思われます。巷間、言われる闇の陰謀勢力も次第に破綻し衰滅しつつあると言えるでしょう。

 神仏は実に、国民に気付かれないで、大激動の到来を発生させて、邪悪な想念を一掃させると共に、意識変革を併せてもたらしていくことでしょう。このノアの大洪水にも似た大変動に際して、上手く泳ぎ切れるか、飲み込まれて破綻・死滅していくのか、この興廃・興亡への選別は正に神仏が成していくものでしょう。各人から見れば実に天の裁きにも似た運命の岐路とも言えるでしょう。

 当HPへの数々の賞賛の御言葉、実に心に痛み入り、大変有りがたく感じるものです。当方から見ても、他の多くのHPには盛り沢山の情報があっても、悲しいかな、それらは一体何処に向かって邁進していくための情報なのか、一向に解らないままに、単にゴミ収集の類でしか目に見えず心に写らないのが偽らざる心境です。例え、真実を暴いても、週刊誌などのスクープ合戦を実施しているのと何ら変わらず、一対如何なる展望の下に如何なる方向へと歩むのか、何も得るところもなく、ただ行く定めぬ漂流船、難破船になり果てているのが実体ではないかと思います。これでは週刊誌やテレビでも見て、本でも読んでいた方がましと言えるでしょう。

 ところで当方は古事記の存在は知っておりましたが、残念ながらこれまで真剣には殆ど読んではおりませんでしたが、最近漸く解ったことは、当方が提示する宇宙理念、宇宙理法と極めて酷似していると知りました。即ち、ご指摘のように、【「真仰」=カミノミチ、カムナガラノミチ、「宙天」=たかあまがはら、「宙天の玉座」=天の御中主神、「心魂}=いのち、「一直線にて直結」=ウケヒ、感謝 、感応、「真の神仏」=極微で無限大のエネルギ−、超微細な波動、いのち】のような関係に、ほぼ概略的にはなるように思います。

 厳密に言えば、「宙天」とは輪廻転生界を超絶した世界であり、そこに鎮座される「真の神仏」は決して輪廻転生界、大自然界、地上界にまで降臨されることはないものと思われます。従って、古事記の世界で言う最高の神々は、果たして最高の輪廻転生界を超越した真の神仏なのか、それとも輪廻転生界における最高の領域におわせられる神々なのか定かではありません。しかし、新しく古事記の世界の神々を、「宙天の玉座」に鎮座される「真の神仏」と、輪廻転生界を守護し地上にも降誕する神々とに再定義することも可能でしょう。またそのように解釈し認識を新たにすれば良いでしょう。
 

↓1.ご指摘の通りで、日頃のご愛好に心より感謝いたします。

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月20日(土)23時30分40秒
   過分なご評価とご愛顧を賜り心からお礼申し上げる次第です。当方も決してお遊びでHPを開いているものではなく、真剣に日本の将来を憂い、改革を志向しているものであり、必ずや当HPで指摘し示唆する諸政策を実施せんとする気概に燃えているもので、世界大激動の到来と共に、日本の歴史的大改革の実現も決して荒唐無稽でもなく、必ずや実現されるだろうと確信するものです。その辺のところを深く御共感されていただいたようで大変嬉しく有りがたく思います。「真仰」においても、決して単なる知識や学識の学問的な関心ではなく、心魂の必死・決死の錬磨として実践しているものです。

 最近知り合ったある人からも、出会った当初は、「自分は戦後以来、ずっと米国により占領され蹂躙された日本を立て直すべく社会運動に奔走し実践してやってきたが最早ダメだ」と言う落胆や失望を聴きました。その後、当方がお手紙で今後の展望や日本の改革への可能性を言及させていただいたところ、当方の真摯な念が伝達されていったようで、大変に感銘され刺激を受けたらしく、人生最後にして相当に生き甲斐を新たにされたようです。その方は、古事記に関する高尚な研究内容の御本を書かれておられるのですが、矢張り、当方の見解に対して、表現こそ異なるものの同じことを言っているようだと言われ、大変共感し共鳴するとことがあるというご返事もいただきました。

 火山灰技術にも多大な関心と感動を覚えられて、目下、政官財界にも火山灰技術の普及にあたってご尽力いただいております。矢張り、暗闇のトンネルの先の明るい出口を見据えて対処するのと、全くの暗闇の出口も解らない中を手探りで生きるのとでは、ストレスや生き甲斐の点で大きく異なるものでしょう。今や当方の様々な事象に対する見解や将来の状況展望により、貴方様と同じように大いに勇気付けられたと言っておられました。今後は波動や空気、潮流の変化と共に、次第に他にも同憂の士があちこちに現れ始めているように感じます。矢張り、類が類を呼ぶという連鎖の波動が次第に浸透してきているように思います。

 考えてみれば、当HPはこの頃は毎日40件前後のアクセスで推移しております。少し何処かの掲示板に掲載すれば場合によっては一気に一日数百件にもなることもありました。振り返ってみればよくも2年半でここまで来たものと思っております。しかし最近は敢えて無理に紹介することもなくなりました。何故なら、一人でも真摯で真剣な方に巡り会えただけで充分に目的を達したからであります。

 よくアクセス件数を誇っている方がありますが、当方はアクセス数よりもアクセスされた方の人格・中味に重点を置いており、たった一人で好意的な方が現れれば、それで充分であります。何故なら当方の目的はHPの宣伝ではなく、実に波動の伝搬だからであります。それでも業務用や著名人ではない一般の個人の方のHPと比べても多い方であり、実に2年半ぐらいで6万3千程も行ったものと思っております。

 今では好意的な方が何人か現れたことにより、既に実質的には当HPの役割においても、ある程度当初の目的は終了していったものと思っております。後は正に「高みの見物」に他なりません。次第に周囲は衰退し衰滅していくことでしょう。次なる行動は、著作として更なる細かい詰めを行ったものを纏めて、何時でも世に問えるような、正に天下に大号令を掛ける一大バイブルのようなものに高めていく必要性を痛感しております。

 最終的に世に受け入れられていく時機到来することあれば、何も難しいものでは無く、一般大衆が簡単に理解し付いて来るようなもの、恰も毛沢東語録のようなもので充分でしょう。将来何時かはそう言うものを完成させていくことが必須となるでしょう。勿論、様々なレベルの内容の著作を残すことが求められているものと思います。これは何も金儲けや売名でするものではない故に、危急存亡の時機到来の暁に一気に世に問うものであります。恐らくその時期は2,3年後と思っております。
 

すなお、素朴になれない日本人            

 投稿者:丸 十 (=そろそろはらをくく/SPAN>  投稿日:2003年 9月18日(木)15時05分22秒
  興味深くいつも拝見してます、当HPは、今では閲覧する数少ないHPとなりました。
腐った所をほじくり回して、悪臭とメタンガスのごときが漂うだけで、しまいには中毒
になりそうなHPが多い内、当HPには力と、情熱が感じられ勇気づけられます。
なにより不動明王様の言葉には力強さが感じられます、幾ら高邁で、崇高そうなことことを云っても力強くなければ内容のない空虚なものでしょう。
極限まで汚濁した世情(勿論私自身を含めて)に暗澹たる気持ちに陥り、将来の展望もなく、何を理想とするかの目標もなく彷徨う存在となり果てた我々に一筋の光明をもたらしてくれるものと信じてます。                         

 > 即ち、「真仰」とは宙天の玉座と自己の心魂の奥底に鎮座される真の神仏を、 清浄で神聖な波動により一直線にて直結する行為であると言えるでしょう。 

「真仰」の真義は不道明王様の述べられるこの句で総てでしょう。

ただこれを真から理解して、実践するには、本当にすなを、素朴にならなければとうてい無理でしょう。
それこそ両手と背中に後生大事そうにガラクタを山ほど抱え、もっと欲しいと目を血走らせ焦る気持ちの連中、また或者は頭(知識、学問)で理解できるものと錯覚し種々雑多なゴミを詰め込み、また少数の、目に見えないものを探求する連中は、出生の怪しげな様々な情報に翻弄され、日暮れて道遠しの状態でしょう。
いずれも求む気持ちが強く、結局は同じ存在でしょう、つまり強欲なのでしょう。
ゴミを山ほど詰め込み、その上更に聖なるものを欲しいとは虫がよすぎる。

無欲は大欲に繋がるように、宇宙に満ち満ちている無限のエネルギ−を受けるには何もかも捨てて、それこそ裸一貫になり、赤子のような純真さと、無欲、になりさえすれば奔流の様に無限な恵みが流れ込むのでしょうね。
文字の使い方は各人各様だと思いますので、私はこのように解釈してます

 「真仰」=カミノミチ、カムナガラノミチ
 「宙天」=たかあまがはら
 「宙天の玉座」=天の御中主神
 「心魂}=いのち
 「一直線にて直結」=ウケヒ、感謝 、感応                        「真の神仏」=極微で無限大のエネルギ−、超微細な波動、いのち

私は現実に押しつぶされそうになると、よくこの宇宙の壮大さに想いを馳せるんです。
この銀河の直径が10万年光年、そして太陽のような恒星が2000億個、
さらにその周りにはこのような銀河が2000億個、観測技術が進めばさらに広がるでしょう。
この気の遠くなるような壮大な空間で無限数の星々は自転、公転を規則正しく繰り返している。
これこそ人智を越えた、偉大な働きで、まさに奇跡ですね。
この働きにある名を付けると、そこで限定されてしまうので、すなおにこの偉大な奇跡の感動を噛みしめるようにしてます。

願わくば間近に迫った世界経済の大破綻(天災も連動するのかな)が、眠れるたましの、大覚醒となることを。

 

「真仰」とはあらゆる魔との交流を断ち切っていくことである

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月17日(水)22時09分43秒
   思うに、「自然法爾」とは浄土真宗の開祖の親鸞上人の晩年の御言葉ですが、この意味する真意は、何もしないで他人委せ、他力本願になるというものではありません。また自力でもなく他力でもなく、余り深く難しく考えないで、曖昧模糊のまま、全ての強制、強要を廃して自由勝手に独立独歩に歩むというのでもないでしょう。大自然の摂理、教えに従って自然体で対処すべき大切さを指摘したもので、無理、我慢、意識を有して不自然に対処していくことを戒めたものでしょう。

 矢張り、今世において自己の心魂の向上、錬磨、浄化こそは、自力でこそ可能であり、その意味で、キリスト教や浄土真宗に言う「他力本願」は身命を賭した自己努力である自らの「発魂」を放棄し、他に縋る、帰依するもので、本質的に誤っていると言えるでしょう。もっとも、宙天の玉座に鎮座される真の神仏を仰ぎ詣拝する行為は、そして自らの心魂を真の神仏に帰依することは、何も「他力本願」ではありません。そして自らの心魂の奥深くに態蔵される真の神仏を身命を賭した「自力」にて発現させる行為こそ、「真仰」の極意であると言えるでしょう。

 即ち、「真仰」とは宙天の玉座と自己の心魂の奥底に鎮座される真の神仏を、清浄で神聖な波動により一直線にて直結する行為であると言えるでしょう。そこには輪廻転生界に徘徊し漂流する一切の魔を排除していく極めて荘厳で厳粛、真摯で真剣な行為であり、心魂の崇高で高尚な修行であると言えるでしょう。即ち、「真仰」とは実に魔との交流、感応、道交を一切排除していくものであり、その為には、欲望や願望の下になる一切の「祈願」行為を廃して、ただひたすらに「感謝」や「祈念」行為に徹するものであります。

 こうした「真仰」なる概念に酷似し類似した心の在り方は、釈尊を始め、多くの宗教家が指摘してきたものでしょう。例えば、囚われない心、不平・不満・不足のない満足した心、慈愛の心、清浄で澄み切った心などでしょう。ところが現在では、至極当たり前のことが、現世御利益宗教と化して、商売の道具に成り下がり、一般大衆も素朴な民間伝来の習慣との認識で妥協しているのが実体でしょう。この悪しき習性・習慣と化した宗教の「信心」や「信仰」が実に魔に通じる危険なものであり、真の信仰、即ち「真仰」によりこの慣習の改定をしなければ、魔の氾濫を生じさせて、多くの人々の精神に異常、狂気、殺気を発生させていくことを指摘し警告を発するものであります。

 更に、「真仰」の実践を国民総決起で実践していかない限り、今世の社会を救済することは不可能であり、単なる法制度の改革では、苦怨に喘ぐ死霊魂の慰謝と救済にはなり得ず、霊界の苦怨が反映された現在社会の救済は全く不可能であると言えるでしょう。2500年前の釈尊も、万一、そのまま当時と変わらない姿で現代社会に現れたとしても、誰も気付かないし、また釈尊自身も複雑な難問を一気に解決する処方箋は提示できなかったのではないかと思われます。例えば、異常気象、エイズ問題、景気振興問題などであり、特に、地獄の奈落の底を彷徨い幽冥・幽悶に呻吟し、悶絶の苦怨や懊悩に喘ぐ死霊魂の慰謝と救済における真正な心魂の在り方に関しては、2500年前の当時と同様に、釈尊と言えども、明快な解答、正確な解決策には言及されることはないでしょう。

 宗教も科学文明が発達した現在では、それなりの衣換えが必須でしょう。特に釈尊の死後500年経過して書き残されたとされる現在の多くの仏教教典からは、複雑な現代社会に山積する幾多の難問の解決方法は出てこないでしょう。信仰の概念すら、現世御利益の対象として、また知識や学識を基本とした学問追求の手段として、更には冠婚葬祭における儀式・形式の道具としてのみ機能し役立っていると言っても決して過言ではないでしょう。今こそ、真の宗教、真の信仰の原点に立ち返って行くことが求められていると言えるでしょう。
 

↓3.内なる心の慈愛で溶かして魔を排除し駆逐することこそ「真仰」の本道

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月17日(水)21時29分0秒
   「真仰」の国民総決起の実践の重要性に関して言えば、幾ら各個人が真摯、真剣に実施していても、例えば、神社・仏閣で「感謝」「祈念」の参拝・合掌行為を実施していても、周囲で従来通りに「祈願」の欲望、願望を発散させていてはどうしようもありません。ゴミを捨てない行為を、またゴミ拾い集める行為を実践していても、「困難だ」と言って、総決起で実施しないでゴミ捨てを放置していっては何にもならないでしょう。

 なお、魔とは戦わないことも当然であります。一体当方が魔と戦えなんて言ったことがあるでしょうか。魔と意識的に無理して抵抗しながら戦うということ、そのもの自体は「真仰」などではありません。「真仰」とは、魔との交流、感応、面会を一切断絶することに他なりません。敢えて言えば、一掃し廃絶すべき相手の魔とは、自己の心魂に巣くう「邪悪な想念」でしょうが、これは戦って実現できるものではなく、即ち、意識を有した「挑戦」でなく、実に無意識の「跳然」で対処すべきでしょう。清浄で神聖な心魂を、「自力」で浄化し錬磨し向上させていく素直で真摯な自己努力でしか達成できません。

 また、『国民総決起で邪悪な想念や魔をいたずらに排除排斥しようとすれば、そのことがかえってその悪魔力を増大させる原因につながるであろう』とは、全くその意図が理解できません。欲望を無くし、心魂を浄化し錬磨する修行をする努力をすればするほど、益々、欲望が湧き募って、心魂が邪悪になっていくと言っているようなもので、万一、それを実感し真実だとしたら、それは邪悪な意図や目的意識、打算、無理、欲望などで実践しているものでしょう。根本的に間違った実践以外の何ものでもないと思います。

 恰も、善行を打算、売名、利欲で実践するようなものです。悪行をしないようにいたずらに意識して、善行を自己強制していけばいくほど、即ち、善行を積めば積むほど苦悩が増すと言うようなものでしょう。そのような邪悪な思惑での行為は帳消しになっていくもので、根本的に誤っております。日本昔話でも、良いお爺さんが無意識に動物を助け、その後に、その助けられた動物がお爺さんに恩返しをしたことを聞いた悪いお爺さんが、無理矢理に動物を捜して助けてお礼を強要し期待していったところ、反対に罰が当たったと言うことと相通じるものでしょう。昔の人は大変素直に様々な物語に貴重な教訓を残していったようです。

 今の人は、特に頭で考えようとする人は、色んな屁理屈を付けて、こうした昔話が真に伝えようとしている真の意図や内容を理解できずに無視し曲解していくことでしょう。最初から良い結果を得るために、善行を意図して打算と利欲で実施するものではありません。逆に苦痛に感じて欲望を助長し懊悩・苦悩を蔓延していくのは当然であります。ましてや善行を苦痛・困難だと言って、真の意義を理解しないで排除していくものではありません。それは意識する打算から来るものと言えるでしょう。

 ところで当方は、真摯で真剣な「真仰」の実践の結果、魔が一掃・廃絶されていくと言うことを指摘しているまでです。それも国民総決起で悪しき習慣を根底から改訂していく必要性、緊急性、重要性を指摘し訴えているものです。この「真仰」の真の意義を理解できないところには、最早、必要性を説得しても仕方ありません。国民全体がかくなる意識では、最早、悪しき思考や旧弊、悪習からの解放も救済も改訂もクソもありません。精々が「棚からぼた餅」ならぬ「棚からクソ」により、自ら破綻し崩壊し総懺悔するのを待つしかありません。既にそうした展望の下に、待機中でもあると言えるでしょう。乱世、大崩壊の到来まで待つしかありません。聖心先生が、「国民が気付かぬ内に意識変化が成されて行くであろう」と言われたことが、次第に深く広く浸透していくことでしょう。
 

↓2.内なる心の慈愛で溶かして魔を排除し駆逐することこそ「真仰」の本道

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月17日(水)21時31分7秒
   現在の邪悪な想念を氾濫させている悪しき習慣は、国民総決起で実施しなければ意味がありません。「真仰」はあくまでも個人単位で実践するもので、ご指摘されるように、『魔とはあえて闘わず、逆に内なる心のゆがみ(邪念)の外なる反映としてとらえ、自らに「気づき」をもたらす昇魂浄魂の糧として、慈愛をもって忍耐強くそれを溶かしてゆく』ものであることは当然であります。「真仰」の効果、影響に関しては、全く誤解されているように思います。しかも、国民総決起での実践に関しては、悪意の中傷すら感じるのは当方の思い過ごしと言うよりも、言葉の端々に感じるもので、全く図星であり本意・本音で正解はないかと思います。、

 また『理論上、いくら正しくて簡単そうにみえる事柄でも、その実践となると様々な困難や理論との乖離が伴うということを、我々は、日常様々な局面において学んでいます。』は、これだけ読むと一見もっともですが、次のセリフに繋がって『例えば、潔癖症の若者がかえって病気に弱いということや、国民の貯金や企業の借金返済が個々にみればそれが良いことであるにもかかわらず、国民総決起でその実践を求めれば、たちまち「合成の誤謬」の問題に直面する』と言うのは、「真仰」の実践において、一体何を障害として否定し排除しているのか全く理解できません。例えも非常に的を得ない不鮮明なものです。

 「真仰」は簡単に「欲望・願望」を排除し魔を一掃することでありますが、これを「潔癖性になる」とか、その趣旨の「病気(邪悪魔)に対する抵抗力が無くなる」のように言うのでは、最早どうしようもありません。適当に利欲や打算、売名の欲望を有して魔と同居していた方が、魔に対する抵抗力があると言うおつもりなのでしょうか。お好きなように魔と同居し狂気、盲目、迷妄の中を御自由に生きて下さい、やられたらやり返す、取られたら取り返すの精神で、邪悪な世間で奮闘して頑張って下さいと言うほかありません。しかし、こうした勝手自由な個人行為が社会悪を招来させているものであり、国民全体が一蓮托生の運命共有になるものです。

 例えば、窃盗や横領・殺人を禁止することは大変困難だと言って、放任できるでしょうか。また無理に禁止すると様々な弊害が来るからとか、また余り社会を浄化して犯罪を無くすと、「水清ければ魚住まず」で潔癖症に陥って面白みが無くなり、適当に放置・放任していかないと、悪に対する抵抗力が無くなるとでも言うのでしょうか。犯罪の撲滅は、悪しき習慣に染まったヤクザ・ちんぴらなどには無理でしょうが、「真仰」も打算、売名、利欲に染まった者には無理でしょう。「真仰」とは、極めて簡単に実行できるもので、その効果は国家社会的に第一義のものと言えるでしょう。

 「真仰」を国民総決起で実践する重要性、緊急性、優先性がある崇高な行為を、「国民の貯金や企業の借金返済」のような世俗的行為に置き換えるのも全くとんちんかんであります。「国民の貯金や企業の借金返済」のように単なる一時代における政治、経済、社会的事象の場合は、時代や環境、様々な境遇などにより、実施形態や態様、タイミングなどが異なり、臨機応変に対処していく必要があるでしょう。即ち、境遇や返済の状況により、強制や強要一辺倒ではなく、取り立て・貸し剥がしを猶予したり、便宜的妥協や免除なども考えられるし、当然の如く、漫画的な強制的で画一的な国民総決起の対象などになるものでもありません。
 
 しかし、「真仰」は時代環境を越えた普遍性を有するものであり、一見すると単なる道徳、倫理の範疇ではないかと勘違いされているのかも知れませんが、そう言う側面を大きく越えた世界性、普遍性を有した真理、哲理に近いものと言えるでしょう。要は「真仰」とは、人間として本来は当然に有しているべきものであり、その原点に立ち返った意識の改革であり、想念波動の変革であります。それを困難だと言うことは、実践する前から、その影響や効果を全く無視し放棄し曲解して否定し排除する以外の何ものでもありません。

 ここに世間では「良薬は口に苦し」とは言いますが、最初から薬が苦いから服用は困難だと言うようなもので、なるようになれとしか言いようがありません。一体何を優先させるかでしょう。悪しき(個人、国家の)病状を改訂するのを優先して一念発起して服用(実践)するのか、それとも困難さ、そして偏見と誤解を第一に考えて頭から実行不能と言って切って捨てて、変な世俗的低次元の例えで納得して悪しき習慣の中にいつまでも埋没して、地獄に直行して行くのかでしょう。
 

↓1.内なる心の慈愛で溶かして魔を排除し駆逐することこそ「真仰」の本道

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月16日(火)00時37分3秒
   最初に感想を述べておく必要があるようです。専ら現在、阪神優勝が最大の関心事であり、「真仰」には付録的・揶揄軽蔑的関心しかないように思われ、これ以上、時間を割いてまで無理して説明するのも余り効果がないと痛感するものですが、行き掛かり上、再度、返答することに致しました。こういう誤解と偏見があることを知って解答しておくのも、何か後日の参考になるものと思いました。

 ご指摘の点は、一見合理的でごもっとものように見えても、幾つか重大な誤解と誤謬、偏見と無理解があるように思います。結果的には、当方が提唱する「真仰」の真意、真実、真髄が殆ど理解されてはいないのではないかと思います。「真仰」の意義や価値、重要性や緊急性が何も解っていないものと、少し落胆し失望し残念に思いました。しかし、再度、御投稿されて初めて真の心境、誤り偏った思い、理解と納得の限界などが読めてきました。「真仰」の実践が大変困難であると言うことは、余程、慢性的に恒常化した困難意識の中に埋没しているからではないかと思います。「真仰」とは現世御利益を排し、ただ感謝の慈愛に満ちた心の実践で行くことであります。貴殿がいみじくも言われる「内なる心の慈愛」の発現でもあります。

 従って、まずは身近な例で言えば、現在の神社・仏閣に対する参拝・合掌を禁止するものでもなく、「商売繁昌」「試験合格」「病気治癒」に関して、一切の「祈願」を排して「感謝」「祈念」で行くべきであり、これは苦怨に喘ぐ死霊魂に対する暖かい慰謝と供養でもありますが、これによって魔(特に悪魔、邪気)を排除し駆逐することになるものです。「真仰」の実践における因果関係、主従関係、手段と目的を混同していることが多いように思います。

 「真仰」とは清浄な波動の発信であり、実に想念意識の変革であり、誠に簡単なものです。特別の行動様式や物理的解体などの必要性もありません。実に行動の中味の意識の改訂に他ありません。もっとも、現世御利益的習慣に染まっている者には、習慣・意識の変革・改訂は容易ではないでしょう。物質崇拝主義、金銭崇拝主義、欲惚けの心情に汚染し感染した「祈願」から、心機一転した「感謝」、「祈念」への意識の変更・修正・改訂は容易ならざるものでしょう。 

 なお、『国民総決起で邪悪な想念や魔をいたずらに排除排斥しようとすれば、そのことがかえってその悪魔力を増大させる原因につながるであろうということは、全くもって皮肉なことではありますが、火を見るよりあきらかです。』とは一体、何を言っているのか全く解りません。「真仰」が結果的には魔を一掃することにはなりますが、「いたずらに排除する」とは何を言っているのか全く理解できません。現在の多くの「信心」「信仰」が魔と同居し、魔を呼び寄せ、魔を氾濫させ充満させて、「悪魔力を増大させる」ものであり、「真仰」が逆に魔を増大させるとは、これはそもそも「真仰」と言うものではありません。崇高な「真仰」の真意を全くねじ曲げた屁理屈、牽強付会、阿諛軽蔑、落とし込みでしかありません。
 

魔を排除し駆逐するのではなく、内なる心の慈愛で溶かすことこそ「真仰」の本道

 投稿者:根本無明  投稿日:2003年 9月14日(日)23時14分44秒
   理論上、いくら正しくて簡単そうにみえる事柄でも、その実践となると様々な困難や理論との乖離が伴うということを、我々は、日常様々な局面において学んでいます。例えば、潔癖症の若者がかえって病気に弱いということや、国民の貯金や企業の借金返済が個々にみればそれが良いことであるにもかかわらず、国民総決起でその実践を求めれば、たちまち「合成の誤謬」の問題に直面するということなどはよく知られているところです。宗教や「真仰」の問題も全く同様で、それが正しいことであるにもかかわらず、国民総決起で邪悪な想念や魔をいたずらに排除排斥しようとすれば、そのことがかえってその悪魔力を増大させる原因につながるであろうということは、全くもって皮肉なことではありますが、火を見るよりあきらかです。むしろ魔とはあえて闘わず、逆に内なる心のゆがみの外なる反映としてとらえ、自らに「気づき」をもたらす昇魂浄魂の糧として、慈愛をもって忍耐強くそれを溶かしてゆくことにこそ「真仰」の本道があるのではないかと思われます。求道のレベルにかかわらず、「真仰」の実践が、そのもっともらしい能書きとは裏腹に、実は大変難しいものであるということを我々は十分覚悟しておく必要があるといえるでしょう。
 

阪神憂愁、半身不随、汎神祈願、半信半疑を越えて漸く阪神優勝へ!!!

 投稿者:阪神不安:不動明王  投稿日:2003年10月 1日(水)23時07分54秒
   午前中は近くのプールでリフレッシュ。午後から某都市へ出掛け、明日13日の午前は某ホテルのプールで水泳し、午後は某国際会議場で研修・会議、夜は船の中で懇親会、14日午前中まで研修で、午後から夜に掛けて、久し振りに開業医の友人と懇談。15日に追加補足の予定。

以下に根本無明殿が9月30日前後に故意に抹消した投稿文を参考までに掲載しておきます。

カッコ悪いが楽な救済(阪神優勝で株価暴騰!) 投稿者:根本無明  投稿日: 9月 7日(日)05時01分24秒

 ところで、あほくさいハイパーインフレの国家破産や世界恐慌が、不可避のものであれば一体、我々はどうやってしのいでゆけばよいのでしょうか? もとはといえば、大魔神ルシファーやユダヤーイルミナティーー国際金融資本やネオコンVSゼネコンの発した、馬鹿さ加減を(たとえ全宇宙の魂のくずをあつめた監獄惑星・地球であったとしても)下々の無知で無力な家畜である国民まで巻き込む必要が本当にあるのでしょうか? 日本に現れる救世主とやらにまかせておけばよいのでしょうか?フォトンベルトや宙天の神々からの清浄な波動により神一厘救われるのでしょうか?火山灰とやらが資本主義なきあとに本当に次の体制を支えるのでしょうか?さらにその上の高次元存在に管理されている人間が反省(ほとんどが、苦しむだけでこりないと思いますが)する位のことでゆるされるのでしょううか?全く正しすぎる不動明王さんに謙虚にご質問致します。
 

大局は「自然法爾」で(御堂筋で阪神優勝パレード!)

 投稿者:根本無明  投稿日:2003年 9月11日(木)23時21分10秒
   「国民の知らぬところで、改革は進むだろう。」「君は高見の見物でよい。」聖心仏陀先生の謎の言葉は、「自然法爾」の深遠な宇宙哲理を含んだ重大なメッセージだったのではないでしょうか。下の長ったらしいタイトルには、「宗教的デリバティブ」にひっかかったみたいで、正直閉口いたしましたが、先生に言われたとおり御自分のスタイルを変えず、ソクラテスの弟子のプラトンになったつもりでこれからもめげずにがんばってください。精緻で堂々たるご回答、本当にありがとうございました。  

↓8.「真仰」の実践には囚われず気にせず縛られない心魂の涵養・醸成・錬磨こそ大切

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月11日(木)21時35分17秒
   少し言い足りなかった点、誤解を生む点などを更に釈明し弁明し解明しておく意味で追記しておきます。逆に反復・重複・繰り返し、そして冗長・冗漫になるかも知れませんがお許し下さい。
 現在の宗教や信仰の在り方に関して、真底から多大な疑問を感じておられるようにお見受けし、それに関しては全く共感するものであります。ただ当方が提示する「真仰」の概念と実践に関するご理解には少々、誤解や曲解を感じるものです。恐らく、解脱や悟覚、成仏などの崇高な歴史的大偉業と勘違いされているものと思われます。決してそのような難解で高度、不能、不可、無理なものではありません。

 確かに如来とか、仏身顛化の歴史的大偉業の達成とかは、一般凡人が真似し求めて会得されるものではありませんし、またそもそも目的意識を有して求める心こそが邪道・邪心でもあると言えるでしょう。これは先述したように、極めて偶然で無意識的に不可抗力的に到来し自然に受け止めて行くところに、死と隣り合わせに存在するものであります。下手すれば、地獄・魔界に直行するという危険なもので、一般人が簡単に修行し授持できるものではありません。

 ところで何処か、一般凡人には「真仰」の実践は無理で困難ではないかとのことですが、この「真仰」は解脱や悟覚とは異なる概念です。あくまでも現在氾濫している「信心」や「信仰」と異なる真の信仰を提示するものです。目下、周囲に氾濫する神社・仏閣における現世御利益による「祈願」行為の「信心」「信仰」は悪しき長年の慣習にもなっており、これらは実に魔の暗躍、跳梁、跋扈、氾濫を招来させ、人々の精神や心魂を狂気、異常、不穏、不安に駆り立てていくものと言えるでしょう。実に安穏で健全な個人や家庭、社会の建設、醸成に際しては、こうした現世御利益や魔力崇拝の宗教儀式、行修行為を根底から規制し排除し修正し改定して行かねばならないでしょう。

 こうした一見素朴な民間信仰とも言える庶民のささやかな小市民的な幸せや満足を求める習俗・祈願を否定し排除するのは困難ではないか、別に構わないではないかと言われる方も多いのですが、これはそう簡単に放置し放任しておけるものではありません。現在は、「信仰の自由」を隠れ蓑にして、苦怨や苦悩、懊悩に喘ぎ悶える死霊魂を、魔霊、魔性、性魔の暗躍、跳梁、跋扈を許してその餌食にさせて放置していくのが真実の実体でありましょう。現世の混乱や混迷は実に死者の苦怨や苦悩の反映に他なりません。

 現在社会の誤り偏った悪しき信心、信仰における宗教の実体は、実に死者に対する残酷・残虐・暴虐な仕打ちを自由に許可しているに等しい行為と言えるでしょう。「死者に口無し」とでも言うように、目に見えないことを良いことにして、一体何が真理かも理解できずに、宗教を商売道具、金儲け手段に化して、好い加減な「論語読みの論語知らず」の解ったような似非真理の言葉で多くの人を惑わし誤魔化し誑かして、科学が発達した現代社会に至っても、実に数千年来に亘って放任して来て、今でも堂々と社会に魔の創出、生産、助長を繰り返しているのは実体でしょう。

 邪悪で猜疑、疑心、懐疑心の旺盛な者達は、必ずや「お前もそうではないか、何の根拠があるのか、証拠を示せ」と逆襲してくるのが常でしょう。何時まで経っても、真理とは無縁の「縁無き衆生は度し難し」でしょう。それ故に、無理解な者を説得し説諭し説示するよりも、むしろ、邪悪な想念として一掃・廃絶して行くしかないのです。恰も、生活習慣が自然に反し誤り偏っている者に対し、その誤りや偏りを指摘しても反発・反撃・反逆を受けるようなものでしょう。最後は、多大な犠牲を払って、自分自身で後悔と懺悔を伴って気付くしかないのでしょう。

 「真仰」の国民総決起による実践こそが、今世社会を救う第一義のものであろうと指摘するのは、実に、世界中の邪悪な悪魔崇拝宗教から発信・伝搬される邪悪な想念を排除し封印し滅失させるのは勿論、それに同調し感応し交流していく現在の邪悪で猜疑な想念を衰滅し根絶していくもので、その必死の掃討・戦闘の過程・延長でしか、国内外のあらゆる難局を打開し救済していくような、正に新しい国家社会の建設は有り得ないからと確信するからです。
 

↓7.「真仰」の実践には囚われず気にせず縛られない心魂の涵養・醸成・錬磨こそ大切

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月11日(木)00時19分6秒
   ところで聖心先生が会得された「法」は約50ほどもあり、空を飛ぶ以外何でも出きると言っておられました。霧が張り込めた中をトンネル状に道を切り開いたり、巨石を移動させたり、骨折を奇麗に跡形なく治療されたり、握手しただけで病状を判断されたり、地下資源の探査、行方不明の捜索、そしてテレビや写真だけで病状や心を判断したり、コンピューターを越えた難解な計算や、機械の故障場所の探知など、実に多くの法を会得されておられたようです。

 ただ邪悪な想念の前では、現在のテレビで公開するような魔力、魔法、魔術のようなことは出来ないと申されておりました。現在の多くの魔法は人の邪念が氾濫する場所でも行使が可能でありますが、真法、真力は、清浄で神聖な場所でしか、行使は不可能でした。また魔法は先生の眼前では行使が不可能でもあったようです。そして、真法や真力は、病気や骨折の治療に際しても、相手に邪念・疑念・猜疑心・懐疑心があったりすれば、不可能であり、例え治癒しても再度元に戻っていくようでした。

 当方も実に政財官界や学界、マスコミ界などに聖心先生のことを紹介してきたものですが、殆ど無関心・無視の有様でした。ただ一人、中南米の某国大使館の人が来訪されましたが、その場で握手されて健康診断をされ、相手も大変驚愕されたのですが、それっきりです。単なる好奇心、興味本位での関心でしかなかったと言えるでしょう。後は有力政治家が形式的に返事を下さっただけです。しかしながら政界や経済界、そして有名な歌手や俳優などにも送付して、明らかに様々な分野で知らずの内に影響が現れてきたように思われます。今や、膨大な手紙や冊子を送付することは、時間的にも金銭面でも効果は全くなく、漸くHPで紹介させていただいたまでです。

 当方も晩年において、清浄でゆっくりとした気持ちで雑念や騒音に邪魔されない山野に身を投じた環境で、聖心先生との懐かしき対話を思い起こしながら解明して後世に残していこうと思っております。もっともそれまでに沢山やり残しておかねばならない事項はあります。目下、当方が聖心先生と知り合う数年前にご再婚された奥様が元気に舞踊の師匠として活躍されておられます。時折、情報を交換して懐かしき先生の想い出に浸っております。奥様からも「何も心配しなくても、その内に先生の御霊が上手く導いてくれますよ」と励ましていただくことが多いこの頃です。

 聖心先生も実に波瀾万丈に富んだ人生であったようです。釈尊は妻子、家族を自ら捨てて出家し悟られたもので、ここにこそ非難・批判が集中することが多いのですが、聖心先生の場合は、幾多の波乱、失敗、挫折、病気により、妻子、家族の方から去っていき、見捨てられるという実に釈尊と逆の人生でありました。その結果、誰にも迷惑を掛けないようにと、深山幽谷の地に死に場所を求めに行かれたようです。そこで奇跡的に難病が瞬時にして治癒し、釈尊が体験されたと同様な何とも言えない仏身顛化と言う不可思議な空気、心境、波動を心魂から痛感されたということでした。当方の青春時代も、実に幾多の苦難、苦労、懊悩、徘徊、流離い、放浪、挫折で満ちた波瀾万丈の人生であり、一歩誤れば地獄に転落であったように今更ながら思い起こされます。それでも医者や医薬にも頼らずに、静かに見えない魔との戦いであったように思います。

 思えば、現在、世界中から奇妙奇天烈な遺物が発見されており、「オーパーツ」(場違いな物)として不可解・不可思議に取り扱われておりますが、これはかつて聖心仏陀先生のような法力を有した方がおられたのではなかったかと思っております。勿論、魔術、魔法、魔力を有して行使して建設・建造した痕跡も多いようです。ムー文明やアトランチス文明、そしてレムリア文明、更には古代エジプトおけるピラミッド建設においては、魔法や魔術が行使されたのではないかと思います。それ故に、魔の祟りを受けて、地殻内部のマグマによる核融合反応を誘発して滅亡崩壊していったように聴きました。今正に、英国人グラハム・ハンコック氏により超古代文明の痕跡が解明されようとし、一挙に火山灰利用の巨石文明の実体と、魔法・魔力と真法・真力の相違に絡んだ真の宗教的事実や事項が明確になろうとしている数千年来の歴史的兆候を痛感するものです。
 

↓6.「真仰」の実践には囚われず気にせず縛られない心魂の涵養・醸成・錬磨こそ大切

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月11日(木)00時50分46秒
   釈尊が悟覚し仏身に顛化し如来と成られた歴史的瞬間とは、正にこれまでの6年間の無為徒労の探求し追求する目的を有した心や意識を、ある時に切実な絶望や諦観の下に排除否定し、この現世に別れを告げるべく、死地の旅に出発されようと決意されたように思います。そうした身命を賭し生命を捨て去る無我の境地に到達したその瞬間において、極めて偶然に無意識的に如来となられたものと推察するものです。

 そして釈尊は如来と成られてからは専ら「舌法」によって真理を語る説法をされたものです。現代の聖心仏陀先生のように、如来に顛化した後に、更に深山幽谷に入って超絶無限の妙理の世界である宙天に、身命を賭し肉体を離脱して魂にて挑然され、幾多の法を会得されはしなかったように思います。伝説においても、釈尊が病気を治したりとか、様々な事象、事態などを探査、捜査したりするような「奇跡」を起こすようなことはなかったと言われることからも解るでしょう。

 然るに聖心仏陀先生は、凄まじい身命を賭した挑然を成し、大宇宙における理法、理念の探査を実践して来られたようです。当方が若いときに協力して製本配布した先生が書き残された大部の御本がありますが、そこには大宇宙の大曼陀羅や様々な真理、哲理、摂理が記載されてあります。解脱から悟覚への段階を辿る心魂の行路や過程を始め、実に多くの重要な事項が満載されております。ただ語句にしても、普通一般の人間界で使用されている語句と、肉体を解脱し離脱し滅却して昇天し、魂により把握し会得し探査した真理に関する語句と、更には地獄界、魔の世界、霊界における事項の語句などとの区別のために、難解な言い回しを多用されたり、現在使用されていない漢字も多くあり、相当に理解が困難であります。

 当方も何時の日に下研究するときが至れば一挙に解明していこうと思っております。当方は敢えて宗教関係の本など読んだり、宗教団体に加入したこともなく、むしろ聖心先生は「君は何も専門もなく、宗教に関しても何も研究してなかったから、僕のところに素直に抵抗無く来れたのだ」と申しておりました。矢張り、「先入観的知識や学識があれば、それが邪魔して真理には到達できない」と言うことを指摘されておりました。なお御本の中には、歴史上の著名な宗教家、例えば、釈尊や弘法大師、キリスト、道元、親鸞、日蓮などの魂が存在し位置する場所、レベルをも記載してあります。これは先生が肉体を離脱されて、魂により昇天し探査した結果だそうです。

 また御本の中には、「この真法を犯す者あれば、その身は衰退、衰滅の一途を歩むであろう、極めて要注意である」との警告もあります。「ここには大宇宙からの清浄で神聖な、何者も犯しがたい波動が充満し宿っているためである」と指摘されておりました。「例え、写真であろうとコピーであろうとその効果に相違はない」とも言われておりました。「但し、ピンやテープで留めたり、タンス内に仕舞ったりすれば、効果は死滅していくだろう。しかし、タンス内に仕舞ってもやむを得ない理由ならば、後日出してきて大切にすれば再度復活再生して行くであろう」とも言われました。

 なお、「僕の書いた物に対して、邪悪で猜疑な想念を発することは自らに跳ね返っていき、最後は何らかの影響があるだろうし、逆に崇拝し心を寄せる者に対しては、様々な守護、御理益があるだろう。心を寄せない者が、これを利用することがあれば、その邪悪な念により天罰を受けるであろう」とも言っておりました。現在の日本の十数年にも及ぶ衰退現象も案外、聖心先生への対応に関係しているかも知れません。聖心先生のような方はこの地球上には3千年に一度現れるようです。この前は実に古代インドにおける釈尊であったと言うことでしょう。しかも、この仏身顛化の歴史的大偉業の達成は、実に偶然であり無意識の行為において初めて可能であり、追求し探求して得られるものではありません。
 

↓5.「真仰」の実践には囚われず気にせず縛られない心魂の涵養・醸成・錬磨こそ大切

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月11日(木)00時17分18秒
   「真仰」とは概念的には極めて簡単な行為ですが、難しく言えば、打算、売名、利欲の心を廃絶し超越していく実践と言えるでしょう。「感謝」とは現状に素直に精神的に(物質的ではなく)「満足」するものですが、決して何も努力をしないで、諦観、妥協、泣き寝入り、敗北、努力の放棄などと言うことではありません。じつに、心(感謝)のあり方は、言葉で簡単に表現できるものではなく、その現実の心の在り方においては、実に「言霊」となって広大無辺の一念三千世界に拡散していくものと言えるでしょう。

 なお、この「感謝」とは人に対する場合は、姿形に現れなければ本物とは言えず、幾ら心に念じても弱いし、また言葉に何回出しても弱く、矢張り、金銭や物質の提供を伴ってこそ、相手の心に通じ本物となるでしょう。物質や金銭が心に与える影響を重視することに対して多大な抵抗を感られることかと思いますが、対人的には「形に心が現れる」と言うことでしょう。しかし、その物質や金銭提供も、打算や売名、利欲の心で実施すれば、その邪悪な念で折角の善行、善意、功徳が帳消しになると言うことも真理でしょう。如何に心の在り方が難しいという所以でしょう。

 そしてその「真仰」の実践の果てに会得されるものは、実に「安穏」「健康」「活躍」「躍動」でありましょう。これは最初から求めて得られる「現世利益」ではなくて、敢えて区別すれば、「理益」と申せるものでしょう。利用、利欲の「利」ではなく、理法、真理、哲理、摂理で言う「理」と言うべきものでしょう。最初に求める心があるのではなく、最初に無心、無我、無欲の心の結果、もたらされるものでしょう。それでも聖心先生が言われるには、「無我」では、現に存在する「我」を無くすというもので良くない、悟覚、悟道の正に「吾、唯、足るを知る」の「吾」でなくてはならないとも言っておられました。

 なお、他力本願は死後の世界でこそ真理であります。現世に生きる者としては、この世に生誕してきた真の目的、意義を深く考察するに付け、矢張り、「自力心」こそ肝要でありましょう。その為に心魂の錬磨、向上、浄化が必死に自力で達成されていくことが大切かと思います。なお、これは単に邪悪で猜疑な想念を廃して、無我、無心、無欲の心境で、一心不乱、不惜身命、乾坤一擲、捲土重来、臥薪嘗胆などの決意で向かうことが求められているように思いますが、そこには自力心の発現のための「意志、意識、目的」が必須なのは当然であります。

 然るに混同されてはならないのは、釈尊が達成され、そして聖心仏陀先生は成就され、更には古来、幾多の修験者や宗教家が挑み追い求めてきた、崇高な解脱、成仏、悟道、悟覚、如来への「道」「法」であります。これは世俗を超絶した人跡未踏の人里離れた深山幽谷の地においてこそ可能であり、しかも単なる「自力心」の発現のような意識、目的の心すら有することなく、正に身命を賭し、生命を捨てた必死の覚悟で且つ「無謂」(単なる無意・無意識ではない)なる自然体で挑然(挑戦ではない)するものであり、一歩誤れば死、地獄、奈落、魔界が待っている非常に危険千万なものであります。

 多くの者は、目的意識、打算、利欲、苦悶、懊悩、悶絶に喘いで、魔界に漂流し徘徊し浮浪する畜生死霊魂に付着され憑依され感応されて、霊感や魔感を授持され支配され地獄界・魔界に突入するものであります。幻視、幻覚、幻聴を廃絶して、生きるか死ぬかの身命を賭した自然体で深山幽谷の地で会得したものでなければ、殆どの霊能力者の有する霊力とは、魔霊魂による魔力、魔法と見て良いでしょう。従って、釈尊も「仏法」を求めるような荒行を戒め、聖心仏陀先生も仕組みを知って「真法」を追求し挑戦し会得しようとするのは、不自然・不合理であり邪道であり危険であると警告されたものでしょう。
 

↓4.「真仰」の実践には囚われず気にせず縛られない心魂の涵養・醸成・錬磨こそ大切

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月27日(土)02時44分39秒
   解りやすく言えば、作家が小説などの作品の構想上、幾ら苦難を求めて体験しても、それでは真の心魂の向上や錬磨にはなりません。また役者が芝居で苦難・苦渋を演じても何ら真の心魂の錬磨・浄化にはなりません。単なる架空で空虚で擬似、似非なる体験であり、後日、懐古的な想い出に耽る擬似的共感の経験ぐらいにはなるでしょう。これは我々がテレビや映画を見て共感し共鳴するようなものと同じ経験でしょう。少しは心身の成長・向上には効果的ではありますが、真に本物とはならないでしょう。

 多くの人は囚われ求め打算で判断して行きやすいのですが、この出発点において重大な誤りがあると言えるでしょう。「健康」にしても、健康食品や健康スポーツなどを追い求めているのが実体でしょう。「健康」とは健やかで康らかな「心」であり、まずは自分の心魂を「健康」にすることで、闊達な生活が得られ、それが活躍、貢献、躍動、飛翔を生み出していくものでしょう。ここにも「心」の在り方が難しく、一言で言い表されるものではありません。

 例えば、一生懸命に一心不乱に自力で頑張る心は、別に必ずしも(他力本願的に)求める心ではなく、その心魂が、邪悪で排他的、利欲的な意図、思惑での心魂で求めるものであれば問題となるでしょう。実に「心」との舵取りは難しいものでしょう。簡単にマニュアル化出来るものではありません。よく、「真面目に良心的に他人に迷惑を掛けないで生きてきたのに、どうしてこんな目に会わねばならないのか」と愚痴をこぼす人もおられますが、何とも人の心の何処が間違っていたのかは簡単には解明できません。

 宗教界でも「菩提心」を求めるように言っておりますが、これも根本的に大きな誤りであり、最初に「心」が「菩提」であるべきで、「心菩提」でなければならないと言えるでしょう。その結果、「菩提心」が達成会得されるものであり、あくまでも結果としてもたらされるものです。多くの人は、手段と目的、原因と結果を履き違え勘違いしているように思います。「悟り」も求めるものであってはダメで、結果的に会得、体得、授持されるもので、打算や利欲で求めたものは、その邪念だけで折角の崇高な目的意志が帳消しになろうかと思います。

 ところで「真仰」とは、何も深山幽谷の人跡未踏の山岳峡谷に分け入って、身命を賭した決死、必死の修行をしなければ実現されないような到達至難・成就困難のものでは決してありません。何も弘法大師が晩年において求めたような即身成仏を得るような行動をするものではありません。「真仰」とは日々の日常生活における真正なる心の規範に基づく実践であり、簡単に言えば、天候や食べ物、そして周囲の環境や境遇の何事に対しても不平・不満・不足を排した「感謝」に気持ちの実践に他ならず、いらいら、くよくよ、じめじめ、ねちねちなどの一切の邪悪で猜疑な想念を一掃し廃絶していく自力行為であると言えるでしょう。

 要は、日常生活における心魂の真正な実践こそが「真仰」であると言えるでしょう。そしてその行為こそ、死霊魂に対する真の慰謝と供養、救済を成していくものであり、その結果が自分も安穏、平安、健康、活躍を保障されていくものでありましょう。むしろ現在の宗教団体に染まっていない方にこそ、「真仰」を知らずの内に実践されておられることが多いと思われ、熱心に宗教活動を実行している殆どの方は、逆に誤った「信心」「信仰」に至っているのが多いように思います。そうした誤り偏った行修・行為の改訂を為し得ない限り、「真仰」の実践は有り得ないでしょう。
 

↓3.「真仰」の実践には囚われず気にせず縛られない心魂の涵養・醸成・錬磨こそ大切

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月15日(月)16時17分9秒
   大切なのは、「我」なる自己を切り捨てて「吾」なる自分を形成し構築していくことでしょう。そこでは、過去は忘れ切り捨て投げ去っていくことが大切であり、また、邪悪な想念に対しては、「見ざる、言わざる、聞かざる」の心で防衛することでしょう。但し、念のために申せば、これは何も無関心、無感動、無気力を意味するものではありません。

 もっとも、仏教にしても神道にしても、何処か、難しい読経や祝詞を挙げたり、教典を解釈研究したり、アクロバット的なヨガを実践したり、水行や荒行を実践したり、時間や姿形、規則、監視に囚われ束縛された我慢・無理の座禅を実施したりしなければ、悟れないものではありません。そのように錯覚させ誘導し、正に僧侶や神官のみが成しえる専売特許のように格調化し、神社・仏閣における神官や僧侶以外は、一般凡人には崇高な悟りに無縁のように仕向けたり、それらの行為が出来なければ、黙って御仏に帰依し他力に縋るように、「他力本願」を当然のように言う傾向がありますが、とんでもない誤解と偏見と言えるでしょう。

 現在の宗教界では、殆どが形式、儀式、格式に囚われ凝り固まっているように思います。教典や教義、儀典や儀式に、余りにも頑迷固陋に長年に亘って固執し盲信しているのが実状でしょう。一体誰が、そのような経文や教典、祝詞に真理や真実があり、その写経や読経に御利益があると真剣に思っているのでしょうか。あるとすれば、もっと別の意味でこそあるべきでしょう。即ち、経文や祝詞の中身の真摯で真剣な実践こそ大切でありましょう。死霊魂に暖かい慈愛の慰謝や供養として通じたり、また神仏に感謝や報恩、祭祀の念として通じるものは、読経や写経、祝詞ではなく、実に清浄で真正、素直で正直な心魂に他なりません。読経や祝詞はあくまでも、清浄な敬虔な心魂への導入であり道案内にしか過ぎません。そこを誤解し混同し錯覚してはならないでしょう。

 2千500年前の釈尊が悟ったのも、何も読書や対話・議論の実践でもなく、座禅やヨガの実践でもなく、思索や瞑想の実践でもなく、真理を求める心を人一倍高め強めるような修行の実践でもなく、実に何ものにも囚われない素直で自然な、それこそ、身命を投げ捨て去り切った極致において、瞬時に会得達成できたものと思います。そもそも求める心、意識する心、囚われる心が多くの迷い、苦しみ、足掻き、争いなどを生み出していくものでしょう。それらを捨象し超越し廃絶したところにこそ、真の安穏、平穏、平和、浄楽、健康があるものでしょう。それらは当初から他力本願や目的意識や打算・利欲で求めるものではありません。

 恐らく、釈尊も、真理を求めるのに、我慢、無理、利欲をもってすれば、逆効果であり、当時流行していたあらゆる座禅や水行、荒行、祝詞などを厳しく禁止していったように思います。ですから、ご自分の真似をしても効果無いどころか、意識して求めることは魔に通じるもので、厳禁にしたように思います。釈尊は当初は求める心、意識を有して実践していたのでしょうが、6年間を経過して何も会得できなかったと悟ったことでしょう。その結果、生命を捨てる覚悟をしたその瞬間に、清浄で神聖な心魂の極致に到達して昇天し、宙天への入場が許可され開扉されていったものでしょう。

 当方が「今から先生のように深山幽谷で修行する必要があるのでしょうか」との問に対し、聖心仏陀先生も、「目的を有して求める修行であってはいけないから、最早、敢えて修行をすることは打算、利欲行為になるからその必要はない」と否定的に言われたのでした。なお、これは解脱、悟覚、悟道への究極的な悟り、如来、仏身(即身成仏)への道程を教え諭されたものであります。単なる日常生活における心における自力心の形成や涵養、醸成に際しては、実に自然に到来した苦労、苦悩、懊悩、苦悶を抵抗なく自然に受け止めて受容し消化し滅失していくことが大切であり、そこには作為や人工、故意があっては本当の体験、解脱、悟覚にはなり得ません。
 

↓2.「真仰」の実践には囚われず気にせず縛られない心魂の涵養・醸成・錬磨こそ大切

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月11日(木)00時14分33秒
   なお、現在、自力心の尊さや大切さを説く法華経を信奉する日蓮宗の団体・宗派もありますが、多くは現世御利益を追い求めたり、霊力(魔力)信心・信仰に染まった他力本願に成り下がっていると言えるでしょう。如何に「自力」の真の正しい解釈と実践が相当に困難であるかを物語るものでしょう。「自力」とは自己の心魂を自力で錬磨し向上し浄化する自助努力に他なりません。そこには一切の可能な限りの「依頼」「依存」「祈願」「祈欲」の甘えや集りの精神を排除し、ただひたすらな「発起」「発念」「祈念」の身命を賭した「六根清浄」の「発魂」の真摯な行為であるべきでしょう。その心魂にこそ、神仏の方から支援し味方し協力していくものでしょう。

 ところで、「真仰」の実践や自力心は困難で不可能ではないか、下手すれば、呼吸や食事に際しても、魔が入るのを気にすることになるのではないかとのことですが、これは少し難しく考えておられるように思い、些か誤解と誤謬があるように思います。呼吸や食事にまで囚われ気にするようなものであってはなりません。むしろそのように感じられるところに、意識の束縛、固執、拘泥、囚われの気持ちが働いているように思います。自然な気持ちで囚われず拘らず縛られずに実践していくことが大切と言えるでしょう。

 「真仰」の実践は、先の「自力」の概念とは少々異なり、「真仰」の実践には「自力」が大いに関係し影響を強く及ぼすと言うことです。「真仰」とは、現世御利益や畜生死霊魂による魔力・霊力信奉の「信心」や、欲望や願望追求の現世御利益ではなく、感謝の行為の基本にするけれど、その感謝の対象を畜生死霊魂などの魔神・魔仏にする「信仰」とも異なり、魔との感応道交、交流を一切排除し、ただ感謝の念で合掌し遙拝し詣拝するものでありますが、その仰ぎ詣拝する方向・対象は実に輪廻転生を超越した宙天に鎮座される真の神仏であり、他方で、各自の心魂奥深くに鎮座する真の神仏の発現行為であります。その行為こそ、「他力本願」ではなく、「自力発魂」で行くべきかと指摘するものです。

 ところでこの「真仰」は、何も損得・打算でするようなものではなく、そもその「真仰」の実践とは「求める」ものではありません。「求める」ところには打算、目的意識、欲望が介入し魔に通じることになるでしょう。そうではなくて自然体で「真仰」を実践することが大切かと思います。確かに、食事においても、好き嫌いの感情が激しければ、そこに心魔が潜入していくことでしょう。呼吸においても、愚痴、嫉妬、妬みの感情を伴っていけば、魔が入りやすいと言えるでしょう。その意味では、心の戸締まりや舵取り、そして行動の自己監視や自己規制こそ大切でありましょう。囚われず気にせず縛られないようにとする余り、その意識に囚われたり気にしたりするのは、実に本末転倒であり、自己撞着であり、自己矛盾と言う他ありません。

 恰も、健康を求める余り、イライラ、クヨクヨ、グチグチの心になっていくのと同じように、幸福を求めるのに無理、我慢、我執、我妄に陥っては、逆に不幸を背負い込むことでしょう。ここで、矢張り心の在り方として、「忍耐、努力」は良いが「我慢、無理」ではダメとか、「差別のない愛好:例えば菜食愛好者」は良いが、「囚われ排他的な主義:例えば菜食主義者」ではダメとか、自然に挑む「挑然」は良いが、無理、打算、利欲で臨む「挑戦」ではダメとか、「野生」は良いが「野蛮」はダメとか、実に心の在り方から招来される波動想念は、千差万別、四方八方、一念三千に拡散し飛散し放散する世界でしょう。
 
 「真仰」の実践においては実に、特殊な才能も規則も行動も不要であり、考え方によっては、比較的に簡単に実現達成が可能と言えるでしょう。単に囚われたり気にしたり縛られたりする心の排除こそ大切であり、換言すれば、我慢、無理、束縛の心は邪魔に働くことになるでしょう。従って、集団で時間や規則や形式などに拘泥し束縛され規制されて実践するものではありません。原則的には各個人で自力で厳正に厳粛に孤高に実践していくものでしょう。
 

↓1.「真仰」の実践には囚われず気にせず縛られない心魂の涵養・醸成・錬磨こそ大切

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月11日(木)00時13分44秒
   始めに、当掲示板はパスワードが無くても、訂正は掲示板の最下位にある「管理者メニュー」をクリックし、ご自分の投稿文を何度でも修正することが出来ますので、宜しかったら一度試みて下さい。当方から貴投稿文を訂正して再掲載することもできます。もっとも削除することもできますので、容量が一杯になった過去掲示板に関しては、要望依頼がない限り、削除・修正を不能にしてあります。

 なお、聖心仏陀先生との対話に関する文章を読んでいただいて、大変ありがたく恐縮に感じます。私も実に長い間、紹介普及に努力してきて暫くはすっかり諦めて忘却していたものですが、ここに来て昨年末に不思議な機縁で某人と知り合って、これまで厚く暗く重く覆っていた暗闇の一角が急に大きく切り裂かれて、光明、光輝に満ちた波動が降り注いで、何か大きな期待と展望が開かれてくると言う空気・波動・潮流の変化を感じだしたものです。それ故に、敢えて未だ遠い先のように思っていた聖心仏陀先生のことを、その準備としてタイミングを見ながら部分的に紹介していくことにしたものです。

 なお米国のテレビドラマで、日本で言えば幕末時に相当する米国開拓時代の出来事でしょうか、米国中西部を舞台とした「大草原の小さな家」の物語がありますが、その主人公のローラも晩年になって、夫に死なれ子供も成長し、忘れかけていた幼少女時代の頃を一気に思い起こして、日記風に書いた作品から、多くの人の心に感動を与えるドラマになっていったようです。私も、時期的には早いとは言うものの、今から忘れない内に、日記として少しでも記憶を整理していく必要が出てきたものと思っております。今後に予想される大激動に巻き込まれる前に、聖心先生との約束を果たし、後世に語る伝える準備として、ある程度、今から骨格、構想を描いておく必要性を痛感しております。

 ところで、本題に入りますが、ここで言う「自力」とは何も崇高で高尚な人間を越えた「悟り」即ち、「悟覚」や「解脱」などとは異なり、極めて日常的なものであり、それも全て本人に押し付け委せ強制するような自助努力、自己責任、自業自得、自暴自棄に追いやるものではありません。最初から「苦しい時の神頼み」ではなく、あくまでも自力で対処していくことの大切さを説いているものです。そうした自己発起や自己発念の真摯で真剣な努力の後にこそ、「人事を尽くして天命を待つ」に至るものでしょう。これは結果の部分だけを見れば他力にもなるのでしょうが、これは他力ではありません。

 最初の発起、決意、発魂、挑戦における自力心の大切さ肝要さを指摘しているものです。なお「自力本願」などはなく、「自力発念」「自力発起」と言うべきでしょう。そして、「自力」とは言え、各自の能力や努力の差異・相違などから自助、自責、自力にも限界があるでしょうから、社会全体で相互扶助、相互救済、相互支援を実施していくことの大切さも当然でありましょう。何も弱肉強食、優勝劣敗の競争至上主義、自由放任主義を推奨したり放置していくものでもありません。

 従って社会政策的に言えば、現在の補助金付けの行政や国民意識の実体では、実に甘えと集りの他力本願に成り下がっているもので、原則的には、無条件的で丸儲け・貰い得の補助金供与よりは低利融資に切り替えて行くような、また全面補助から自己負担を伴った一部補助に切り替えるとかの自力心を鼓舞・推奨・促進させるような自助努力、自己救済に向けた政策転換が必須でしょう。それでも弱者救済、敗者復活、既得権益の解体、人材の流動化などの政策を併せて行くべきでしょう。現在は最初から弱者救済を実施して、それが既得権益化して行くところに問題があるのです。国民全体が役人根性化し、既得権益の受益者に成り下がり、国家財政を食い物にして他力本願に染まっていると言えるでしょう。
 

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