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1.アーリア民族=漢民族説を追う

 投稿者:小林佐知子  投稿日:2003年 9月27日(土)02時21分27秒
   紀元前3500年頃に北緯35度付近を襲った気候の変化は、ロシア平原のステップ地方にいたアーリア人を南下させたり、モンゴルやゲルマンの民族移動にも大きく影響を与えたようだ。その気候の変化は地球的規模の大変動によるものであり、恐らくポールシフト(極移動)ではなかったであろうか。その結果、北緯35度以北では寒冷化し、それ以南では乾燥化して砂漠化していったように思われる。

 最近の調査でも、この時期からギリシアでもレバノンでも巨大森林が姿を消していったようだ。民族大移動と砂漠化と、畑作文明と遊牧文明の融合が行われたように思われる。これは最近出版された「古代日本のルーツ 長江文明の謎」(青春出版社:安田喜憲)でも紹介されているようだ。
http://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/inasaku-sosen.htm
http://eco.goo.ne.jp/magazine/files/lesson/feb02.html
 ただし、気候変動までは推察しているが、その気候変動の真の背景や原因に関しては、未だ暗中模索であるようだ。

 ところで南下してきてインダス文明を滅ぼしてイランやインドに侵入してきたアーリア人は、実は東方にも侵入していったのではなかったであろうか。インダス文明やメソポタミア文明、エジプト文明の発生した時代は今から6千年前の紀元前4,500年頃だ。それに比べれば、黄河文明は今から4000年前の紀元前2000年頃だ。文明が一気に花開く気候変動の時期にしては少々おかしな符節ではなかろうか。

 最近は今から6千年前の紀元前4000年頃の、正に、西アジアやエジプトで文明が発生した紀元前4000年頃に、揚子江の長江文明が栄えたことが解明されている。その文明は、西アジアの畑作と遊牧が融合した平原の文明ではなく、稲作と狩猟・漁労とが融合した文明であると指摘されている。この自然と調和し自然を崇拝する長江文明が、日本に伝わってきて縄文文明の一翼を担ったとも言われている。即ち、不動明王さんも指摘しておられるが、鉄器使用のない稲作文明であり、目下、問題となっている弥生土器=鉄器使用=稲作開始の定説が間違っていることだ。即ち、稲作と鉄器とは伝搬ルートや時期が異なると言うことだ。稲作は長江文明からで、鉄器は黄河文明の北方からだ。

 そして長江文明より遅れて発生した4000年前の黄河文明は正に北方遊牧民によるもので、現在の中国人、漢民族の文明に他ならないようだ。これは漢民族が遊牧民であり、畑作民であることを物語っている。即ち、稲作で狩猟・漁労民が主体である日本民族と根本的にルーツが異なるということだ。自然調和で自然崇拝し、母系社会で、稲作・狩猟・漁労の民族で、身分格差の少ない日本の縄文系と、自然破壊、自然征服で、父系社会で、畑作・遊牧の民族で、ピラミッド型社会を構成し、肉食文明を担って家畜化・奴隷制を生み出して来た中華民族、即ち、漢民族であろう。
 

↓14.アーリア人の出身と由来に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 6月 8日(日)01時18分41秒
  2500 インダス文明(舗装道路、排水設備が完備され、公衆浴場もあった。南インドにすむトラビダ人の先祖か)
2500 英国に巨石群ストーン・ヘンジが作られる(〜2000)
2480 エジプト古王国時代の第5王朝
2400 メソポタミアの都市国家が他の都市国家を支配するようになる
2370 アッカド人のサルゴンが即位(〜2320)
2350 北メソポタミアにアッカド人がアッカド朝をつくる。エジプト古王国時代の第6王朝
2340 ピラミッドに象形文字が刻まれる(発見されたもののうち最古のもの。第5王朝ウスナ王のピラミッド)
2313 ノアの洪水?(洪水伝説は世界のあらゆる地方にある)
2254 アッカド朝の第4代シンが即位し、勢力が地中海沿岸に達する
2200 エジプトで古王国時代がおわり第1中間時代。第7王朝
2112 メソポタミアでウルが復興し第3王朝(〜2004)
2050 エジプトで中王国時代
2000 これ以前に西アジアで太陽信仰に基づく「ミトラ信仰」が起こる
2000 この頃、エジプトで発酵パンが作られはじめる。年代特定できず
2000 小アジアのヒッタイトが鉄をつくる。この頃、オリエントでガラスの製法が開発される。場所は不明
2000 シリアのアモリ族がメソポタミアに侵入し、小国家バビロンをつくり、やがてメソポタミアを統一。古バビロニア
2000 この頃、中米とアンデス山中に定住農耕社会ができる
2000 インダス文明が滅びる(アーリア人の侵入または森林破壊が原因か)
2000 トロイア第2市が焼失する。ユダヤ民族がシリアへ移動
2000 日本は縄文時代後期で、抜歯が普及する
1894 バビロン第1王朝(〜1600頃)
1800 アブラハムの族長時代(他説1700または1750)
1800 ヒッタイトが興る。葡萄酒を洗礼に用い、7曜を設け日曜日を休日とする
1792 バビロン第1王朝のハムラビ王即位(〜1750)
1780 エジプトで中王国時代が終わり第2中間期となる。第13王朝
1766 殷王朝成立(湯王が夏を滅ぼす)
1730 ヒクソスがエジプトに馬と戦車で侵入。エジプト初の異民族支配
1700 この前後に中央アジアのアーリア人がイラン高原に移る
1500 この頃、アーリア人がインド及びイランに侵入
1500 ギリシャでミケーネ文明。この頃、北メソポタミアにアッシリア帝国が興る
1400 中国で殷王朝が成立。中国が青銅器時代に入る(他説1600)
1400 エジプトがパレスチナを支配する。新王国時代
1354 エジプトでツタンカーメン王が即位(〜1345)
1300 この頃から前800年代にかけてアルファベットが発明される
1300 この頃アーリア人が小アジアからギリシャに侵入
1286 エジプトのラメス二世が、パレスチナで小アジアのヒッタイトと戦い敗北する。エジプトはファラオが勝ったと記録した。エジプトの弱体化
1275 モーセによるエジプト脱出(他説1290頃または1250頃)
1250 イスラエルに12部族宗教連合ができる
1225 イスラエルで宗教指導者による政治が始まり、士師時代となる
1200 小アジアのヒッタイトが崩壊する
1200 インドのアーリア人が『リグ・ベーダ』をまとめる。カースト制の起源
1193 トロヤ戦争
1090 エジプトで新王国時代が終わり、末期王朝時代となる。第21王朝
1122 殷が滅亡し(または1028年)周が中国を統一。殷の腐敗を除くためとした。殷の人々は四散し商人となる
1100 この頃、中国で星座を28に区分する
1100 この頃、フェニキア人が象形文字を簡略化させ、22文字から成るアルファベットを考案する
1020 イスラエルでサウルが最初の王となる
1010 イスラエルでダビデ王即位(または993年。〜970?)
1000 この頃までにアーリア人がガンジス川流域に定着。バラモン教がはじまりカースト制が作られ、今日に至る
1000 日本は縄文時代晩期。製塩は、土器に海水を入れ、煮詰めていた
961 この頃ソロモンが王位につく。シバの女王がソロモン王を訪ねる
・・・・・以下省略・・・・・

参考文献: 考古学者のギンブタスの「古ヨーロッパの神々」学説
      (馬と戦車については、「馬の世界史」木村凌二氏 参照)
 (民族の分布・派生参照 :http://www.infoaomori.ne.jp/~sakamoto/indo.html
      (「アーリアンとは何か」津田元一郎)
      (鈴木秀夫著 「超越者と風土」 大明堂発行)
      (安田喜憲著 「縄文文明の環境」 吉川弘文館発行)etc.
 

↓13.アーリア人の出身と由来に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 6月 8日(日)01時17分39秒
   なお以下に参考までに、オリエントに展開したアーリア人の移動を理解するために、通説の世界史年表を紹介します(年代は紀元前)。なお、一部当方の見解と異なる箇所もあります。

1790000 神々が日本に下る〜天孫降臨(日本書紀の神武天皇による)
1750000 南アフリカでアウストラロピテタス群
500000 ジャワ原人や北京原人が現われる。先土器文化
150000 ネアンデルタール人、明石原人が誕生
140000 日本最古の遺跡(宮城県古川市。まだ原人の段階)〜デタラメな学説だった
100000 牛川人。富士山がはじめて噴火する?
30000 クロマニョン人(ホモ・サピエンス)が誕生
30000 日本は前期旧石器時代で遺跡は30カ所。この頃、大陸から日本列島に人類が移動?
25000 ナウマン象が存在する(長野県野尻湖畔。旧石器時代)
18000 沖縄県具志頭村の港川人
16000 ムー大陸が太平洋に沈没。信憑性はゼロ
16000 日本は後期旧石器時代
14000 日本の石器が細く鋭利になる
11000 アトランティス大陸が存在した。信憑性はゼロ
10000 北海道以外は縄文土器時代に入り、貝塚が造られる
8500 氷河期が終る
8000 オリオン座大星雲(M42)が誕生        
----- 文明の誕生 -------
8000 メソポタミアで初期農耕と牧畜の開始。日本が大陸から離れはじめる
7500 縄文時代早期
7000 ヨルダン渓谷に世界最古の要塞都市ジェリコが創設される。現在も都市である
6500 温暖化により日本列島は大陸から完全に切り放される
6000 縄文早期。この頃から葡萄酒が飲まれる。エジプトで初期の農耕
5800 ユーゴに都市が芽生える
5000 日本の推定人口は29000人?
5000 聖アウグスチヌスは『神の国』で紀元前5000年を宇宙創造の年と設定
4000 縄文時代前期。メソポタミアで平焼きパンを食べ始める
4000 中国で初期仰韶文化。原始農耕村落の誕生。揚子江流域で米が栽培される
4000 メソポタミアまたはエジプトで彩文土器が造られる。シュメールが青銅器時代に入る
4000 ナイル河畔に40余りの都市国家ができる
3500 この頃南ロシア草原で馬が家畜として飼われる、年代特定は不可能か?
3500 トロイア第1市
3300 西ヨーロッパ巨石文化。シュメールで都市文明と楔形文字がはじまる
3100 エジプト第1王朝がおこる
3000 この頃までに酒が飲まれるようになる
3000 縄文海進。温暖になり、極地の氷河が溶けて海水位が上昇
3000 縄文文化が南千島から沖縄に及び、土器が多彩になる。縄文時代中期
3000 メソポタミアでウル、ウルクの都市国家ができる
3000 上下エジプトをナルメル王が統一する。エーゲ海文明
2800 メソポタミアで初期王朝
2781 エジプトで太陽暦の創始
2750 エジプト初期王朝のうち第2王朝
2700 エジプトで古王国時代
2650 エジプトでピラミッドとスフィンクスが初めて創られる
2600 クレタ島で青銅器文化。エジプト古王国時代の第4王朝
2500 ウル第1王朝。日本の推定人口は26万人
2500 青森市郊外の三内丸山遺跡は倉庫と集落があり、望楼は高さ20メートルと推定される
2500 シリアでアムル人とカナン人が遊牧を営む。西アジアで青銅器の鋳造技術が発見される?
2500 中国で彩陶文化(仰韶文化)〜または2200または3000
 

↓12.アーリア人の出身と由来に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 6月 8日(日)01時13分5秒
   まず紀元前2000年紀の前半になると、突然メソポタミアの北方の西アジア一帯に、インド・ヨーロッパ語族の国ミタンニ、ヒッタイト、カッシートが現れる。これらの国々は、戦車でメソポタミアの諸都市を攻撃し、古バビロニア王国を滅ぼすなど、メソポタミアからエジプトにまたがる広大な一帯を席巻する。次いで、別の一派のアーリア人もこの戦車に乗って、インダス地方とインドに向けて侵攻を開始し、先住民を征服してしまう。そしてヨーロッパ方面には、別の一派のケルト人が侵攻し、当時青銅器文化だったヨーロッパの先住民を、戦車と鉄の斧で圧倒し全ヨーロッパを席巻する。

 これは、コーカサス地方という、草原の十字路で様々な遊牧民族が行き交い、お互いに抗争を繰り返すという、最も掠奪闘争の圧力の強い地方で、その闘争圧力の中で勝ち残った部族が、外に侵攻すれば、向かうところ敵なしという構図を示している。馬と戦車・そして鉄器という武器も、強力な闘争圧力がなければ開発されなかっただろう。(そして近世にみられるような、ヨーロッパの侵略性の高さ=可能性さえあれば、侵略を開始するという行動パターンのルーツがここにあるのかもしれない。)

 一方で、迎え撃つ国々もエジプトなど、王国を形成し防御力の強い国は、一時的に支配されても、戦闘方法を吸収しながらやがて、侵略者を撃退する。古ヨーロッパの先住民やインダスのトラビィダ人など、そこまで防御力を形成できなかった民族は滅びるか逃げるかしかなかった。

 以上、研究者の見解を引用しながら考察してみましたが、アーリア人の行動や背景を考えるために、最後の墓や金属、武器に関しては、当時の社会状況などで参考になればと追加したものです。それにしても、ヨーロッパ語族とは言いながら、アーリア人はイランやインドの民族を構成し、ゲルマンとも異なり、恰も、日本の土着の縄文人が古ヨーロッパ人であるとしたら、アーリア人は侵略した渡来系の弥生人と言うことになるでしょうか。

 紀元前3000〜3500年のアーリア人、ゲルマン人、モンゴル人などの民族大移動を促したものが一体何であるのか、恐らく北緯35度付近の環境の変化だとしたら、それは極移動ではなかったかと思われます。事実、今から6千年前から南極の氷も形成されたということが観測され、そして、南極の氷の下には何と石炭が発見されていると言います。石炭が発見されるということは、南極はかつては緑豊かなジャングルであったということでしょう。

 また、金星にしてもギリシア神話に登場するのも比較的新しく、その天体での不可解な動きも、一説には、木星から噴火した水星が金星であり、それが月の運動を狂わせて、月の地核を破壊して大量の水を地球にもたらしてノアの洪水を招来したと言われており、当方も、月の内部が空洞であったり、月が地球に一面だけしか見せていないことからも、充分にあり得る話であろうと思っております。その金星の登場が招いたノアの洪水は、今から4、5千年前ではなかったかと思われます。

 当方が思うところ、幾多の地球的規模の大変動の後に、畜生死霊魂が輪廻転生して人類に進化し、特定の星座から降臨して人類・各民族が生誕し、そしてある面では、牛や羊、ヘビなどの畜生死霊魂を神と信じて各民族固有の神を崇拝した宗教や信仰が巻き起こり、中には生け贄の儀式を伴った悪魔崇拝宗教により、強力な魔力、超能力を授持し保有したりして、様々な技術、武器を発明して侵略していったように思われます。

 その結果、因果応報、自業自得の下に、魔の祟りを受けて民族が滅亡し文明が崩壊していったものと思われます。ところで、各民族の興亡や継承性を考えた場合、当該民族が母系か父系か、そして定住か遊牧か、自然崇拝か特定の神崇拝か、一神教か多神教か、白色系か有色系、使用土器や武器、生活様式などの観点で考えてみるのも一つの便宜的な方法でしょうか。
 

↓11.アーリア人の出身と由来に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 6月 8日(日)01時12分3秒
   「戦車と青銅器の開発」に関して言及すると、原インド・イラン語族は、何も、最初から強力な軍隊を持っていたわけではなく、異民族との接触、戦車と馬の機動力、青銅という金属資源、といった歴史的・地理的諸条件があったようだ。「そのうち、前三千年紀の初期と思われるが、原インド・イラン語族は分裂して、言語上、インド人とイラン人という二つの別々の民族に区別されるようになった。彼らはその時も牧畜を行ない、おそらく交易を通じて南方の定住民と接触したと思われる。」

「メソポタミアからは、まず牛にひかせる木製の車、次に二輪戦車の使用を学んだ。そして戦車をひかせるために、ステップ地帯の野生の馬を投げ縄で捕らえて馴らした。同じ頃、青銅器が使われるようになった。内陸アジアのステップ地帯のまわりの山脈、とくにアルタイ山脈には、銅と錫の豊富な鉱床があったから、ステップ地帯の住民は戦士として強固に武装することができた。」

「近隣部族への侵略の開始」に関して、
「馬がひく車の出現によって、古い生活様式はより不安定で危険なものとなり、典型的な『英雄時代』(原始社会から国家・階級社会への過渡の時代。英雄の行動は英雄叙事詩といわれる文学を通じて伝えられている。)に移っていったと思われる。そこでは首長とその従臣たちは、利益と栄光を求めて出立し、他民族の居住地で略奪するばかりでなく、近隣の部族をも侵略しようとした。ゾロアスター教の古い詩句に、超自然の霊は『まさに強い戦車兵が剣帯を締めて、正当に獲得された宝のために戦うように』競うとされている。」
「ときには、戦利品は力ずくで奪った牛の群れであった。偉大な勝利者の名声は、血と弱者や保護されていない者の苦悩でもって贖われた。」この厳しい自然風土と生活様式、苦悩に満ちた現実に目的を与えるために形成された宗教思想は、後のあらゆる世界宗教−仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に影響を与えることになる。

 紀元前2000年紀に起こったと思われるインド・ヨーロッパ語族の侵攻による激波を考えてみよう。一体、母権的な古ヨーロッパ文化を破壊した草原(ステップ)地域由来のインド=ヨーロッパ語族とは、どのような民族なのだろうか?

 インドヨーロッパ語族は、紀元前2000年前から突如移動を開始する。それまで住んでいた、黒海・カスピ海周辺(コーカサス周辺)から移動を始めた。それは移動というより、侵攻といったほうがふさわしいようだ。彼らは、戦車(馬に繋いで牽引させる戦車)という当時の先端兵器をもって、侵攻していった。そしてやや遅れて鉄の武器も手にしていた。
 

↓10.アーリア人の出身と由来に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 6月 8日(日)01時11分2秒
   そして「富者の墳墓」に関しては、「ヴァルナ(ブルガリア)の墳墓(前4千年紀)は、西ヨーロッパの巨石墓と同じ時代につくられた。この墳墓は幾つかの区画に分かれているが、そのうちのひとつは当時の東部・中央ヨーロッパでもとくに豪華である。」

「ここでは、墓ははっきりと次の3つに分類できる。まず、供物のない(またはほとんどない)貧者の墓。次に、きらびやかな金の細工品や、大きな銅の道具や、骨製の小像などがあふれる富者の墓(ふつうは、男の方が女より副葬品が豪華だった)。そして、最後に、粘土の顔が金の飾りをつけて遺骨の代わりに収められている象徴的な墓である。」このヴァルナの墓からは、世界でも最古の金製品が出土している。アイブナール金鉱によって繁栄した上流階級のものである金のブレスレットなどの装身具、高価な材質の王杖などである。

「共同墓から個人墓へ」に関しては、「前3千年紀から前2千年紀への変わり目、ヨーロッパでは人の行き来や交易が盛んになり、ある種の文化統合が行われた。まず北東部に、前2500年以降、縄目文土器(粘土が柔らかいうちに縄を押しつけて文様としたもの)を副葬品に持つ単葬墳が現れた(単葬墳とは墳丘に覆われた個人の墓のこと)。これらの墓には、土器以外に、柄孔のあいた見事な石の戦闘用斧が入っていた。」この縄目文土器は、ウクライナ地方からフランス東部までの広い地域で、石の闘斧とともに単葬墳の副葬品の一部だった。

「それからいくぶん遅れて、ボヘミアからブリテン諸島、モロッコからオランダまでの広範な地域で、水平な帯状文様の洗練された坏が、やはり個人墓の副葬品として現れた。この土器は鐘を逆さにしたような形をしていることから、鐘形坏土器(ベル・ビーカー土器)と呼ばれている。この坏の入った墓にはフリントの矢じり、石の腕甲(弓を射るときに弦が擦れて傷がつかないように、手首につけるもの)、三角形の小さな銅の短剣なども入れられていた。」西ヨーロッパでは、鐘形坏土器文化によって、銅の冶金を普及したらしい。この二つの土器文化は、1.共同墓の消滅と個人墓の出現、2.社会的不平等の発生という、変化を社会にもたらすことになった。

 ボルガ川の東の南ロシア、このステップ地帯の半遊牧民たち、即ち、インド・イラン語族(アーリア民族)はどのような民族であったのだろうか? その一つであるインド・イラン語族(アーリア民族)について見てみることにする。
「遠い昔には、イラン人とインド人は一つの民族をなしており、これは原インド・イラン語族と呼ばれている。彼らは印欧語族の一分派で、ヴォルガ川の東、南ロシアのステップ地帯で牧畜をしていたと考えられる。彼らは半遊牧民だったが、(馬がまだ家畜化されなかったので)徒歩で限られた地域を、犬を使って牛、羊、山羊を放牧していたらしい。彼らの社会は、大きく二つのグループに分けられた。祭司と、(狩人でもあった)戦士、牧畜民である。」

「ステップ地帯の生活は、発展や変化の余地をほとんどもたないほど厳しいものだった。この緩慢で変化の少ない生活を続けた数世紀の間−おそらく紀元前四千年紀から三千年紀までに、原インド・イラン語族はきわめて強力な宗教的伝統をつくりあげた。その要素は、彼らの子孫である、インドのブラーフマン(バラモン)とイランのゾロアスター教徒によって、今日に至るまで守り継がれている。」
 

↓9.アーリア人の出身と由来に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 6月 8日(日)01時10分7秒
   それでは、「紀元前3500年代までヨーロッパで生活していた母権的な古ヨーロッパ文化を駆逐し破壊した、草原(ステップ)地域由来のインド=ヨーロッパ語族とは、どのような民族なのだろうか?」これについては某研究者に見解では、「一般に遊牧という生産様式が、他部族との接触・闘争や移動生活と隣り合わせであることから、部族集団の崩壊を防ぐために、一般的に、罰則・規範が厳しく、一神教との契約思想が生まれたり、また、オアシスなどの遠方の目的地が理想化されて、理想郷・楽園思想が生まれたという説もある。」とし「ユダヤ・キリスト教的な一神教思想のルーツが遊牧民の生態にある」という定説が紹介されている。

 「一方、インド=ヨーロッパ語族の文化は、一神教的・ユダヤ的なものとは、どうも違うらしい。 たとえば、インド=ヨーロッパ語族の文化は、インドでも、ギリシャ、ローマでも、多神教である。また、男系ではあることは共通らしいが、ユダヤ的な禁欲的な色彩は、インド=ヨーロッパ語族の文化にはないようだ。偶像崇拝の禁止も、ユダヤ的一神教の特徴で、インド=ヨーロッパ文化にはない。

 元々、ユダヤ的一神教の起源は、エジプトでの一神教への宗教改革期のエジプト人であったモーゼが、反宗教改革の後、権力闘争に敗れた側のエジプト人・異邦人を引き連れて、シナイ半島に脱出したことから始まるという説があり、単純ではないらしい。」と指摘している。

 要するに、紀元前3500年代までヨーロッパで生活していた母権的な古ヨーロッパ文化、そしてインダス文明も母権的で多神教文化であった。然るにこれらを駆逐し破壊した草原(ステップ)地域由来のインド=ヨーロッパ語族、インドでも、ギリシャ、ローマでも、そしてユダヤやアーリア人は父系社会で一神教であり、そこから何らかの糸口が見出されるのではないかと思われる。

 ヨーロッパの新石器時代における社会構造の変化を見ると、「身分や貧富の差がないように見えた新石器時代だが、前4千年紀半ばともなると、重大な変化が現れてきた。とくにバルカン地方や中央ヨーロッパで著しかったこの変化は、その頃、銅の冶金と金の細工が発達したことと深い関係がある(バルカンではヨーロッパで最も古い銅と金の細工が作られた)。」

 「同じ火の産物でも、土器が各家で生産・消費されていたのに比べ、金属の場合は技術的にずっと複雑だった。何より、限られた場所から鉱石を掘りだし、各地に運ばなければならない。坑夫、運搬人、彼らの作業を組織・保護する指揮者、彼らに食物を供給する農民……、こうした人々が、仕事の専門家と社会の階級分化にもとづく新しい秩序の担い手となった。」
 

↓8.アーリア人の出身と由来に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 6月 8日(日)01時09分0秒
   インダス文明においては、1.前2300〜1800の鉄器時代以前(青銅器文明)では、インダス川中下流域の都市国家群(モエンジョ・ダーロ、ハラッパー、カーリーバンガン、ロタール等)に栄えたもので、母系制社会、地母神であったようだ。次が、2.ヴェーダ時代で前1500〜前600年頃に栄え、その内、前期ヴェーダ時代が前1500〜1000で、特に前1500にアーリア民族(インド・ヨーロッパ語族)の侵入[第1次移動]があり、[中央アジアからインダス川上流域(パンジャブ地方)へと移動]し、ダーサ(黒い肌を特徴とする先住民。ドラヴィダ族?)を征服しつつ混血化し、牧畜が主、農業は副で牛を神聖視し、「リグ・ヴェーダ」(自然を崇拝する多神教の讃歌、最古のヴェーダ)が成立し、日、月、雨、雷、光、水、火、動物など、多くのものを信仰していたようだ。

 インド=ヨーロッパ語族文化以前の「古ヨーロッパ」文明においては、某研究者の見解では、考古学者のギンブタスの「古ヨーロッパの神々」によると、紀元前4千年紀から2千年紀までにインド=ヨーロッパ語族による侵略が行われるまで、ヨーロッパには「母権的でおそらく母系的」な「古ヨーロッパ」とでも称すべき文化が存在していたようだ。

「インド=ヨーロッパ文化は、前4500年から前2500年頃の間にロシアの草原地帯から三度にわたって侵入した民族によってもたらされたもので、父権的で攻略的、遊牧的で可動的、好戦的文化であり、それは、南と西の端を除いてほぼヨーロッパ全域に波及したようだ。これによって古ヨーロッパの女神たち、より正確には実にさまざまな相を持つ<創造女神>は、インド=ヨーロッパの支配的な男神たちに大きくとって代わられたようだ。」
           
 これは、アドリア海沿岸、エーゲ海沿岸、ドナウ川沿岸、バルカンといった場所で発掘された、日本の土偶とそっくりな小像や、文様を描いた土器が紹介されているようだ。水紋や植物、あるいは鳥、魚、へびなどの動物のモチーフが出土品にはちりばめられていて、面白いのは鳥女神、魚神、ヒキガエル女神、ミツバチ女神、蝶女神、熊女神など、「豊饒」「再生」を表す動物と女性を組み合わせた姿が多いようだ。

 この文化を生み出した人々は、「装身具や道具の材料として銅や黄金が有用であることを独自に発見したばかりか、初歩的な手書き文字さえ生み出している。」「小麦・大麦・カラスノエンドウ・エンドウマメに加え、野菜類も栽培し、馬を除けば今日のバルカン地域にみられるすべての家畜を飼育していた。」「海上ならびに内陸の水路が主要な交通路だったことは疑う余地がなく、早くも(前)7千年紀に黒曜石が海路で運ばれていただろう。帆船が前6千年紀以降から使われていたことも土器の線刻画によって裏付けられている。」

 某書物から引用してみると、まるで、最近の縄文文明の研究成果について書いているような気がするが、実際、同じような文化がヨーロッパで脈々と発達していて、その長さは、ギリシャ文明以降よりも倍も長いのだと指摘されている。多くの方は、ギリシャ以前は、ヨーロッパには野蛮人しか住んでいなかったんじゃないか?くらいに思っていたのではないかと思われるが、実は、縄文文明でもみられるように、こうした文化が前4千年紀以降、ステップ地帯から侵略してきたインド=ヨーロッパ語族によって分断、消滅させられ、その名残りが、クレタ島や、ギリシャの青銅器文化に継承していったのだったと言われている。
 

↓7.アーリア人の出身と由来に関して 

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 6月 8日(日)01時08分5秒
  アーリア人の来住
 インド・ヨーロッパ系の言葉を話すアーリヤ人は、中央アジア方面で遊牧生活をしていたが、その一分派が 前1500年頃から徐々にパンジャブ地方に移住した。インダス文明はすでに衰退していた。

 通説では、アーリア人は中央アジアで部族ごとに遊牧を行い、麦を栽培し、 自然現象に由来する神々を崇拝していた。宗教祭式では興奮性の飲料を 尊び、彼らの社会では司祭が重要な役割を果たした。彼らの強力な武器は2頭の馬が引く軽い二輪車で、車上の兵士が弓を射るという機動性に富む戦術をとり、各地で先住民を征服しました。

 部族の首長(ラージャン)に率いられ、先住民族を征服しつつ、牧畜を主とし農耕を従とする半定着の生活を始めました(前期ヴェーダ時代、前1500〜前1000ころ)。 当時の生活では牛が最も重要な財産で、農作物としては大麦の栽培が中心でした。

 インドとイランに定住すると、それぞれ先住民と融合して独自の宗教と文化を発達させ、両民族間の違いが大きくなっていきました。インド北西部に移住したアーリア人は先住民を区別して、皮膚の色が黒く鼻が低く、奇妙な言葉を話し異なった宗教を信奉する者としました。

 インド亜大陸の歴史はインダス文明に始まる。最盛期はBC2300〜BC800年頃の事と考えられている。しかしBC1800年を過ぎると、地殻の隆起、洪水その他の理由から文明は衰亡し、地方的な文化へと移り変わって行く。
 
 BC1500年頃西方からアーリア民族(遊牧民)がパンジャブ地方へ進出してきて、部族制を維持しながら先住農耕民と共存していたが、BC1000年頃にはガンジス河流域に進出し、自らも森林を切り開いて農耕を行うようになる。元来自然現象を神格化した神を崇拝し、神々と人間の仲介者としての司祭(バラモン)が重要な役割を果たすバラモン教を宗教とし、その思想はBC1200年頃成立のリグ・ヴェーダに詳しく見られる。
 

↓6.アーリア人の出身と由来に関して 

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 6月 8日(日)01時07分4秒
   古代インドには、7つの強大な都市があった事が記されているが、 モヘンジョ・ダロ、ハラッパーは共に、構造の似通った都市であることが 考古学的に証明されている。(つまり、両都市とも、強大な城壁を持っていた)そしてモヘンジョ・ダロの発掘者である考古学者のジョン・マーシヤルは、モヘンジョ・ダロの城壁の丘に、長さ13メートル、幅8メートル、深さ2.7メートルの、「大水槽」を発見している。

 『ラーマーヤナ』の「ランカ」に関する記述通りに、これは窯焼きの煉瓦の裏に、厚くアスファルトを塗った構造で、とても5000年前の耐水構造とは、とても信じられなかった、というコメントを残している。またこの「大水槽」の用途については、さじを投げている。 「神聖な魚だか、ワニでも飼っていたのかもしれない。もちろん、証拠は何処にもないが・・・」 とはマーシャルの「大水槽」についての締めくくりの発言である。これで、『ラーマーヤナ』の「ランカ」が、モヘンジョ・ダロである可能性は 高いと言えるわけであるが、当時の文字が解読できない、といった状況である。 

 どうもインドの本質は、インド移住前のインドヨーロッパ語族アーリア人にその根源があり、前3000年ごろから始まったインダス文明と融合して形成されてきたようです。

 なお、主要遺跡のモヘンジョダロは、人口4万人ともいわれる計画都市で、インダス川はインダス文明圏の主要交通路であると同時に、その水は生活用水であり、乾燥した大地にあって水は神聖なものとされた。市内には修行の場としての巨大沐浴場があり、沐浴は後に成立するヒンズー教に、修行の中心として受け継がれていく。

 インダス文明は、修行法としての瞑想、牡牛崇拝、リンガ(性器)崇拝、宗教的シンボル「卍」を、前1500年ごろ北インドに侵入したアーリア人にもたらし、後のヒンズー教の2大基盤のひとつとなった。ヒンズー教は、さまざまな神、哲学、風習、信仰の混合体で、時に相矛盾するものをも含め、すべてを包容する。その中心が3神1体(トリムールティー)とされるブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神への信仰だ。シヴァはインダス文明起源、ブラフマーとヴィシュヌはアーリア人起源で、ここでも2大基層文化の存在がわかる。
 

↓5.アーリア人の出身と由来に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 6月 8日(日)01時06分8秒
  『アグネア』
 インドの様々な文献に「ヴィマナ」と同じく登場してくる「アグネア」という兵器が現れる。これは「バーラタ戦争」末期に登場した兵器で、これについて『マハーバーラタ』に記されている記述を見てみることにしよう。
 「その時、英雄アスワタマンは自らのヴィマナに断固とどまり、水面に降り立って神々すら抵抗しがたいアグネアの武器を発射した。神殿修道騎士団長の息子は全ての敵に狙いを付け、煙を伴わぬ火を放つ、きらきら輝く光の武器を四方に浴びせた。」「矢の雨が空に放たれた。その矢の束は輝く流れの星のように落下し、光となって敵を包んだ。突然、濃い闇がパンバヴァの軍勢を覆ったそのため、敵は四方の感覚さえ失ってしまった。
 
 恐ろしい風が吹き始めた。戦獣(戦闘用の象)は恐れおののき、鳥たちが騒ぐ、空に雲がうなり、地の雨となって降りそそぐ。自然の秩序そのそのものが、かき乱されたようだ。太陽が揺れ動く。宇宙は焼け焦げ、異常な熱を発している。象たちはあの武器のエネルギーに焼かれ、炎から逃れ出るべく、恐怖にあえぎながら駆けまわった。水は蒸発し、その中に住む生き物も焼けてしまった。あらゆる角度から燃える炎の雨が激しい風とともに降りそそぐ。雷よりも強烈に爆発したこの武器に、敵の戦士達は猛火に焼かれた木々のように倒れた。この武器に焼かれた巨大な象達は辺り一面に倒れ、もの凄い叫びをあげた。やけどをした他の象達は恐怖に狂ったように水を求めて辺りを駆けまわった」

 同じような内容は、『マハーバーラター』の紹介でこちらにも載せてある。まるで広島・長崎の原爆を思わせるこのアグネアの内容はまぎれもなく遥か昔、紀元前に記された内容なのである。他にもアグネアについては、「太陽を一万個集めたほど明るく、煙と火が絡み合った光り輝く柱がそそりたった」とも表されている。他にもアグネアの形として「死の杖のように恐るべき槍。その寸法は3キューブと6フィート。授けられたその力は、千の眼を持つインドラのいかづち、生けるもの全てを破壊した」とも表現されているのである。また『ラーマヤーナ』にもアグネアを使用したと思わせる内容が記されている、それはこちらを見るといいだろう。少なくとも、どれをとってもそれは「核兵器」を思わせる様な内容の兵器であるこちには違いない。

『モヘンジョ・ダロ』
 ハラッパーと同じ、インダス文明の代表的な遺跡である。この遺跡は会議場、学院、また穀物倉など、いろいろな施設が立ち並ぶが唯一神殿がない。また都市全体の壁は非常に厚く、それは対核戦争のために作られた構造である。
 またモヘンジョ・ダロの遺跡には、土地の人達が「ガラスになった街」と呼ばれる危険地帯がある。そこはまた「ガラスの丘」とも呼ばれ、干乾レンガばかりの遺跡の中で唯一異様な空間を構成している。黒い石で地面を覆われているが、しかしそれは黒い石かと思えば、ガラスの様で非常に軽いのである。科学的に分析したところ、それは「1500度以上の非常に高い熱を短時間に浴び、その後温度が急激に下がり、溶けた状態のまま固体化したものである」というものだった。

 モヘンジョ・ダロは約600年続いた都市ではあるが、環境の変化のため衰退していったとされる。しかし、遺跡全体の構造や「ガラスの丘」にしても、環境の変化で衰退したとは思えない部分がある。モヘンジョ・ダロの遺跡からは高濃度の放射能が検出され、また時期的にも、『マハーバーラタ』の時代と合致している。もしかしたらモヘンジョ・ダロは核戦争で衰退したのだろうか。

 また『ラーマーヤナ』には、「ランカ」なる都市名が登場するが、この都市は、 ラーマ王と魔王ラーヴァナ王が決戦をおこなったとされるところである。ランカとは、「島」を意味し、従来は、セイロン島(スリランカ)を指すと 思われていたが、当時のモヘンジョ・ダロは、インダス川の流れの中にあり、いわば中州に造られた都市であった事、また、ここに『ラーマヤーナ』の決戦を前に、ラーマ王の部下の、ハヌーマンが、ランカを「空中偵察」してきたときのものと、『リグ・ベーダの』の「十王戦争」の史料を載せておくが、分厚い城壁、停泊地がないと言った描写は、スリランカより、モヘンジョ・ダロ の方が、ぴったり来るように思える。
 

↓4.アーリア人の出身と由来に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2004年11月27日(土)19時15分36秒
   ところで、インダス文明は前2300〜1800に栄えたもので、アーリア人が進出したのは前1500年でありますが、アーリア人が直接乃至間接的に融合して関係していたのか、それともアーリア人が侵入してきたときにはインダス文明が既に衰退し自壊していたのか、またはアーリア人が直接インダス文明を滅亡させたのか、通説通りには定かではないように思われます。通説では、「マハーバーラタ」が伝えるように、アーリア人が侵入してきたためにインダス文明が崩壊したとなっており、インド最古の文献の一つ『マハーバーラタ』では恰も核戦争があったかのような凄まじい記録が記載されております。そして現にインダス文明のモヘンジョ・ダロ遺跡においても、対核戦争のために建設されたような構造であり、高温で溶解しガラス化した痕跡や、多数の遺体が折り重なるようにして残置されているものが発見されているようです。

 『マハーバーラタ』は今から1500年から2500年前の出来事で、それに記された内容は、誰がどう考えても「核戦争」としか思えないという内容であります。天かける車、ヴィマナとは何か。そして最終兵器アグネアとは。以下に、某研究者による『マハーバーラタ』について紹介します。

『マハーバーラタ』
 インド最古の文献の一つ『マハーバーラタ』。これは「バーラタ族の戦争を物語る大史詩」という意味で20万行もある世界屈指の長編叙事詩であり、『マハーバーラタ』の時代よりも遠い昔から口語で語り継がれそれをまとめて編纂したものであると言われる。紀元前10世紀頃のバーラタ族の二大分派間の戦いをうたったものであり、日本人の祖先クル族(縄文人?)が全世界を治めてた時代に、いまのヨーロッパ人のアーリア人が仕掛けた陰謀によって起こった戦争である。わずか18日間の戦いであるが、世界規模の戦争とされ、バーラタ戦争と言われている。バーラタ戦争の結末は、宇宙からの惑星爆弾がぶち込まれることによって天変地異をもたらし、集結したという。

 また、これは『マハーバーラタ』に限ったことではなく、『マハーバーラタ』と同じインド最古の文献『ラーマヤーナ』などにも記されているが、「ヴィマナ」、「アグネア」と呼ばれる兵器が登場する。また内容の方を見れば分かるが、それはまるでその時代に原子爆弾を落とされたような内容が綴られている。
 「ヴィマナ」とは内容的に明らかに飛行能力の備わった乗り物、または航空兵器のことを表しており、これは紀元前10世紀頃に『ヴィマニカ・シャストラ(航空車経典)』として纏められた。これについてはこちらのほうにも紹介しておくが、詳しい内容として、古代航空技術の一環としてまためた『ヴィマニカ・シャストラ』を参照するといいだろう。そして「ヴィマナ」と同じく登場してくる「アグネア」という兵器が現れる。これは「バーラタ戦争」末期に登場した兵器で、これについては後で詳しく述べることにするが、内容的に数千年前の内容のものとは思えない内容を含んでおり、一言でいうと「核ミサイル」、または「原子爆弾」そのものの描写である。

 『マハーバーラタ』の内容自体が核戦争を記した物語であり、また『ラーマヤーナ』等、他のインドの古代の文献を見ても「ヴィマナ」や「アグネア」が登場して、どれも核戦争を思わせる内容なのである。『マハーバーラタ』とは少し離れるが、「宇宙考古学」を確立させ、超古代文明の発端はメソポタミア文明にあることを説いたゼカリア・シッチン氏は、シュメールの神々と古代インドの神々との関連性に述べ、メソポタミアとインダス一体の古代核戦争の接点を結び付けている。詳しくは「神々の戦い」の「第三の文明」を見るとよい。しかし何故、古代インドの文献が核戦争の内容を含んでいるのか。それは多くを持って謎だが、「古代核戦争」で載せたフレデリック・ソディの『原子の解説』が物語っているのかもしれない。
 

↓3.アーリア人の出身と由来に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 6月 8日(日)01時04分35秒
   ところで、日本の縄文文明と同じように、そもそも可成り昔の古代史から超古代史はよく解明されていないようです。人類の発生は諸説ありますが、HPでも指摘するように、3万年前のアフリカ発生起源説ではなく、この日本の40万年前の縄文人であり、縄文人が全世界に散らばって生存していたように思われます。もっとも日本書紀の神武天皇に関しては、百数十万年前に神々が天孫降臨して日本に下ったことになっております。恐らく畜生死霊魂から輪廻転生としての人類の進化の過程として、霊体から幽体、そして幽質から物質化して物体として、最初にこの地球上の日本に降臨してきたものと思っております。初期の人類は空も飛べ、超能力と言えるものを有していたように思われ、その証拠が日本の縄文文明の各遺跡に見る人工ピラミッドや巨石、宇宙服のような土器などでしょう。これはナスカ高原や世界中に、オーパーツ(不可解なもの)として見られるものです。

 そして2万6千年前のアトランテイス、レムリア、ムー文明が1万2千年前に、邪悪な想念波動と呼応して、地殻内部の放射性原子核融合反応により大異変を招来させて崩壊していきました。この原子核融合反応は、世界でも全く謎とされている1905年に発生し大量の放射能が発見された西シベリアの「ツングース謎の大爆発(核爆発)」の原因でもあるように思われます。また、火山や地震は共に地殻内部の放射性原子核分裂反応によるものであろうと思われます。なお、日本の縄文文明はこの同時期には共存していたものですが、大崩壊には巻き込まれることがなかったように思われます。そして通説では約2万年前に氷河期(ヴィルム氷期)が終わった後、気温は徐々に上昇し、縄文時代前期〜中期である約6000年前に気温は最も高くなり(平均気温で現在より約3度高かった)、海面が上昇し、縄文海進(紀元前3000年?)や、氷河期の後退(通説では8500年前?)が生じたことになっておりますが、こうした大変動はノアの洪水伝説や地軸の変動からきたものと思っており、氷河期などは存在しなかったように思われます。

 そして現在の歴史において、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河の各文明が紀元前4000年から8000年前に発生してきたもので、実に、その前は殆ど石器時代であるかのように、未解明の時代とされております。しかし、黄河文明よりも2000年早い長江文明も発見されたり、またピラミッドもエジプト文明との関連性は余りないようで、縄文文明の高度性やより古い遡及性、世界的広がりが改めて確認されつつあります。そしてこれら初期文明を創設した民族が一体何処から来たのかもよく解っておりません。恐らく、一部はその前の崩壊したとされるムー、アトランテイスなどの超古代文明から逃れてきたものと思われます。可成り前から、恐らく30年ほど前から、オーパーツ(場違いな物)と言われて、高度の技術を有した超古代文明の痕跡、遺物、遺跡が次々と発見されております。

 最近でも沖縄付近の与那国島の海岸近くの海底に巨石文明跡が英国人グラハム・ハンコック氏により発見されております。これはHPで紹介してあります。次第に1万2千年前に崩壊したムー、アトランテイス、レムリア文明の痕跡が発見され検証されて行くことでしょう。問題はその後においても、今から4千年前から5千年前にもノアの洪水伝説などでも分かるように大変動があった可能性が高いようです。ご承知のように、世界中の神話には洪水伝説がありますし、世界史を考えると、3000〜3500年前には民族の大移動があります。ゲルマン民族、モンゴル民族、アーリア人がこの時期に移動しています。原因は北緯35度地帯の寒冷化とも言われています(恐らく地球の極移動か?)。この時期にアーリア人も民族移動を開始したように思われます。何処かで某民族が大移動すれば、玉突き現象で次から次へと連鎖して大移動となっていったようです。

 また、ある時から突然、神話に登場する金星の存在、金星の自転方向が他の惑星とは正反対で地軸が約177.3度もひっくり返っている点、即ち逆向きに回転している点、また火星の水や人工物の存在、月の大気や水の存在、月の内部が空洞、月が地球に同じ面ばかり向けている点、天王星の自転軸が黄道面に対して約98度に傾斜して横転している不可解さ、火星と土星間の小惑星群の存在、極移動や地球揺動の真因を考えてみると、何らかの宇宙的異変と地球的規模の大変動が相互に関係したように思われ、それらが民族の移動や文明の崩壊にも影響を及ぼした可能性を否定できません。
 

↓2.アーリア人の出身と由来に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 6月 8日(日)01時03分42秒
   「ミュラーが学説を唱えたのは、イギリスによるインドの植民地化が進行していた19世紀。ミュラーがリグ=ヴェーダの研究を始めたのは、イギリスのインドでの植民地教育官僚だったトマス・マコーレーによる依頼で、ヒンズー教徒の信仰を混乱させるためであった。アーリア人という鼻の高く色白の人々が外からやってきて、色の黒くて鼻の低い原住民を征服し、隷属させたのだ、そういうことが、お前達の聖典には書いてある。だから、我々お前達の上流階級と同じ白人が優れた文明を広めるのと同じだ、という文化工作をおこなったのである。

 さらに、南の人々は、北の人々によって駆逐された民族の子孫で、上流階級はヨーロッパ人に似ていて、下層階級は原住民に似ているという主張を行い、南北間、階級間の分裂を図った。このアーリアン学説は、学説誕生時から、非常に疑わしい虚構・捏造だ、という反論があった。ミュラーは、一度もインドに行ったこともなく、本当にヴェーダの言葉が何をさしていたのか、理解してなかった(あるいは故意に誤解した)らしい。
              
 現代人は、言語というのは、モノと言葉が一つ一つ対応していると考えるが、古代の人々はそうではなかった。ある事象全体をあらわす全体的な概念があって、個別的な言葉は後に分化したからである。例えば、ヴェーダでは、「アグニ」は、西欧人は、「火」「火の神」と訳す。そういう場合もあるが、熱、光の原理、あるいはただ超自然的な存在であったり、富を与えるもの、幸福をもたらすもの、すべて「アグニ」なのである。「アグニ」とは、強さの原理、光の原理、力の原理、輝きの原理なのである。あるいは、「アシュヴァ」と言葉を、西欧人は「馬」と訳す。しかし、この言葉は同時に、生気の具象を表すもので、神経エネルギー、生気、心と物質を結ぶ力学的存在を意味する。

 類似・近接した事象の本質を示す一般的な概念が先立つのが、古代の思考法なのである。これは、とにかく分化する発想しかできない現代人の思考法とは全く逆の、あくまで統合概念ありきの発想法ともいえる。そのほかにも、実は、インド=ヨーロッパ語に共通の語は少ないこと、乗馬技術は実は大変新しいらしい(紀元前1000年ほどだという説もある)など、欠陥が多い。恐ろしいことに、この捏造の疑いが極めて高い学説が西欧を席巻し、さらに西欧の歴史を下敷きとしている日本の教科書・歴史書は、古代史の始めから、科学とは言えない学説を主張している。(リグ=ヴェーダも、西欧人による誤訳をそのまま和訳している。)】と言う学説であります。要するに、西洋人が全てアーリア人ではないと言うことでしょうか。

 なお、アーリア人は紀元前3000年頃には既に小アジアに侵出していたようですが、紀元前3000年以前はロシアの草原地帯にいたようです。母系の古ヨーロッパ人を駆逐していったのが父系のアーリア人で、草原地帯から侵入して南下し、先述したように紀元前2000年頃に印度に進出したようです。この母系の古ヨーロッパ人は何処に消えたのか定かではありませんが、中近東や地中海に多く存在している民族群ではなかったかと思われます。
 

↓1.アーリア人の出身と由来に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2003年 9月27日(土)02時14分3秒
   初めまして、当HPへの御訪問有りがとうございます。
 可成り御専門的なご質問で、何処かの大学の研究室からの問い合わせのような感じも致しますが、ヤフーで「アーリア人」と入力しても確かにアーリア人の印度侵出後ぐらいしか分かりません。アーリア人自身のことや、インダス地方のイランや印度への進出前はよく解っていないようです。それでも少し示唆する事項が記載されております。正に人類の発生や地球の歴史に関係するような大々的で深遠な課題です。以下に、某本や某HPでの様々な研究者の見解、また当方の独自の見解を交えて考察してみます。なお、アーリア人は印度に侵入する前はロシア平原にいたものと思われ、北欧に定住していたことは無いのではと思われます。

 アーリア人は紀元前2000年頃に、恐らく現在のアフガニスタンのカイバー峠から北部印度・パンジャブ地方に侵入してきたものと思われ、またイランの国名もアーリアのペルシア名であることや、紀元前1000年、アーリア人がバラモン教からカースト制度を作ったが、バラモンやクシャトリアなどの支配階層は侵入してきたアーリア系であり、被支配階層の先住民族のドラビダ族がクシャトリアやスードラになっていったことぐらいが歴史上の通説のようです。また、紀元前1200年に初めてバラモン教の「リグ・ベーダ」が出来、実に、アーリア人がインド進出後、300年間を経過しております。その信憑性は、正に釈尊の死後、500年を経過して完成した仏典と同様でしょう。

 なお、一方では 「アーリアン学説」による歴史事実の歪曲を指摘する方もおります。即ち、某研究者によると、「アーリアン学説」とは、「中央アジアに住んでいた白人の遊牧民=アーリア人が南下して、鉄器や騎馬技術を駆使して、数回にわたって原住民を征服し、ヒッタイト、アッカド、さらには、インド、ペルシア、ローマ、ギリシアという古代国家・文明を築いたのだ」という説であります。

 この説を以下に某書から引用し紹介すると、【「マックス・ミュラーというドイツ人学者が、ヒンズー教徒の聖典、リグ=ヴェーダを翻訳しているうちに、かつて、インド・ヨーロッパ語とでもいうべき一つの言葉を話す民族=アーリア人がいて、そこから東はインド、西はヨーロッパにまで至ったのだ」という仮説を唱えたことから始まるようです。

「1859年から61年にかけて、マックス・ミュラーは、ロンドンの王立協会で講義をし、従来、『インド・ヨーロッパ』、『インド・ゲルマン』といっていた言い方を、『アーリア』と言い換えるべきだと説いた。なぜならば、インドに侵入したサンスクリットを話す人々は、自らをアーリアと呼んでいたからだ、と説いた。」「1788年、カルカッタの最高裁に赴任したウィリアム・ジョーンズ(ペルシャ語、アラビア語学者)が、サンスクリットとギリシア語、ラテン語、ペルシア語、ケルト語、ゲルマン語などとが類似し、これらに共通の祖語を考えなければ説明がつかない、と主張しだしてから、約70年後のことだった。

 トーマス・ヤングは、この共通な祖語をもつ言語群の人々をインド・ヨーロッパ語族と名付けたが、その限りでは、言語の類似性の問題であり、人種や血の問題ではなかった。」「リグ・ヴェーダを研究し、そこに『アーリア』というひびきのよい呼称で呼ばれている集団があり、その集団が原住民を征服して、古代インド文化を創造した、と解釈したマックス・ミュラーは、その『アーリア』こそヨーロッパ人、ペルシア人、インド人の共通した祖先である、と主張した。」(「アーリアンとは何か」津田元一郎)
 

以上は、新着順81番目から100番目までの記事です。
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